逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録/市橋達也 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録/市橋達也

2007年、英会話講師だったイギリス人女性が殺害・死体遺棄された事件で容疑者となり、その後警察の包囲と捜索を振り切り、3年近く逃亡していた容疑者の手記である。表紙、挿絵も著者による。

通報が決め手となり、2009年11月、逃亡から2年7ヶ月後に著者は逮捕された。2011年7月に無期懲役の判決を受け、現在上告中である。本書は2011年1月が初版となっているが、いつ頃、どのような形で文章を書き、出版に至ったかは書かれていない。

本書には色々と物議を醸すポイントがある。
まず、当時まだ公判中であった重大事件の容疑者が、嫌疑のある事件に関しての記録的書籍を出版するという点である。
世論の操作や、判決の誘導、そして被害者感情への配慮不足など、批判の声は大きいが、私は、容疑者であれ受刑者であれ、書籍を出す事は何ら問題ないと考えるし、むしろそうした特異的な立場の人物の考えや感情を公にする事は、人間理解にとって非常に有用であると思う。
被害者側への配慮という点では、どのような書籍であれ不当に他人の名誉を毀損してはいけないという点でとくに異なるものではなく、同列に扱えばよいと思われる。

冒頭にある、本書出版の目的が、「自分が犯した罪の懺悔のひとつとして、それを記したい」とある。本文中には、被害者を「死なせてしまった」という表現も出てくる(しかし決して「殺してしまった」という表現は出てこない)。贖罪と悔恨の気持ちが強いようである。しかし、その割りには、本書は逃亡した空白期間の記録に留まり、事件そのものに関する記述は、ほぼ皆無である。どのような経緯でどのように犯行に及んだか、という情報が全くないので、その辺りに期待していた向きは大幅な肩すかしを食らうだろう(副題を良く読めという事もあるが)。そして、全てをつまびらかにしない、そうした態度がはたして本心からの贖罪にあたると言えるのか、という批判がある。

そもそも、本当に本人が真実を書いたのか、という疑念がある。
内容が真実かどうかについては、全て真実から、全くのデタラメまで幅広い可能性がある。事象は真実を書いたけれど心情は美化して書いたとか、裁判などに都合の悪い事実は敢えて書かなかった、などいろんな可能性がある。また本人が書いたのではなく、断片的なメモからゴーストライターが起こした可能性もある。

一読して、私は、これは本人が事実と実際の心情の記憶を綴ったものであると感じた。
ただし、前エントリで「錯覚の科学」に学んだように、人の記憶というものは当てにならない。本人が、当時はこういう事がありこう思った、と本心から思っていても、自分で作り上げた架空の記憶である、という可能性も大いにあるのだ。逃避行というのは肉体的にも精神的に相当なストレスが掛かるものだと思われる。そのような状況下では、記憶の改変が過度に進む可能性は大いにあると思われる。
ある程度は被害者側を意識しての事か、また世間的なバッシングを回避するためか、模範的な表現に留まり、心情深くにあるむき出しの感情は述べられていないと思う。例えば、自分をこんな惨めな状況に追い込んだ被害者への恨みなどは、当然湧き出るはずである。何であれぐらいで簡単に死んでしまうんだ、あいつにさえ出会わなければ俺は罪を犯さずに済んで、今こんな目に遭う事もなかったのに、という酷く自己中心的な感情は、人間であれば誰しもちらっとも考えないという事はないだろう。だが、そうした記述はない。これは著者がそうした感情を持たない希な人物か、そうした感情を持った記憶は改変で抹消されたか、敢えて表現しなかったかのどれかであろう。
逃走当初の記述は、しばしば記憶が飛んでいる。状況の異常性からはもちろん、3年弱という期間は記憶が脱落しても改変しても不思議はない。逃走直後に山中で見た幻覚らしき映像の記述などは非常に興味深いものだ。
だから、忘却もあり改変もあり、また意図としても当然すべてを包み隠さず表現しきったものでは無いのだろうが、それでも見せられる限りを素直に書いた、という印象は受けた。

日本列島北から南、青森から沖縄までの逃避は大変興味深い旅となっている。
特に印象深いのは、逃走半年後あたりで四国でお遍路をするあたり。不安定で追いつめられた精神状態ゆえか、お遍路巡礼を思い立つのだ。お遍路を何十周も行えば、死んでしまった被害者が生き返るかもしれない。そんな強迫観念に駆られての行動である。変わってしまった運命を元に戻したい一念であろう。このあたりの心情はとても理解できる。
次に感銘を受けたのが、沖縄での無人島ライフである。魚を捕り、野菜を育て、植物を採集し、毎日食べ物の事だけを考えながら孤独に日々を費やす様は、異様な迫力と生命力を漂わせ、インパクト十分である。
著者は大学で造園都市設計などを選考したらしく、植物にはかなり詳しい知識を見せる。

マスメディアの間違った報道に憤るメンタリティが特異的だった。掴まってさらし者だけにはなりたくない、という一念でこの逃避行を為し得た、そのプライドの高さである。

もちろん文学と呼べるほどのものではないが、あちこちに漂う詩情や、特殊な境遇が生み出す、他では見られないような独特の行動や心理描写はオリジナリティが高く、一遍の人間描写として読んで損はない。
小説としても読めるし、逃亡犯の行動と心理として犯罪研究にも役立つだろう。
実際、逃避行を描いた作品をものしようとする者は、最低このレベルの迫真性をクリアしなければならないという点で決して無視できない書籍になるだろう。

警察の包囲をすり抜けたところから書き始め、捕まるまでを描いた構成も必要十分である。殺人事件そのものは、取るに足りない普通の類型犯罪に過ぎないと思うので、そんな所を長々と書かれてもあまり興味が持てないだろう。

さて、この事件、そしてこの書籍に興味を持ったのは、著者が最後に捕まったフェリーターミナルは我が家の近所である、という要因が大きい。自分の身の回りで起こった事件は気になるものだ。
そして、南港の住民として一言著者に言いたい事がある。

まず、ニュートラムの事を何度もモノレールと書いているが、正確にはニュートラムはモノレールではなく、連結されたバスに似た車両が空気タイヤで専用路を走る、新交通システムと呼ばれるものである。しかし、これはまあどうでも良い。
そして、これが重要な点だが、著者は咲洲南港地区の地理について理解が及んでいないと思われる。逃走初期に一旦この地を訪れた著者は、南港のATCあたりから市中心部へ行こうとして、徒歩では通れない自動車専用の海底トンネルに阻まれ、「海に囲まれた陸の孤島」というおかしな表現をしている。陸の孤島は海に囲まれる事はないので、多分、海の孤島、という事が言いたかったのだと思うが、それは間違っている。確かに北の海底トンネルは自動車と鉄道専用であるし、北東の阪神高速も当然車両専用だ。しかし、南東の南港大橋を通れば歩いて市中心部へ移動する事は可能である。
逮捕直前最後のシーンでも、「逃げても、ここは陸の孤島だから、警察の人海戦術ならじきに囲まれる」との表現で、南港地区からは歩いては出られないという前提で逃亡を諦めているのだが、上記の理由でそれは間違っているし、そもそも著者が待機していたフェリーターミナルは、咲洲ですらない。咲洲から件の南港大橋を渡ってすでに大阪本土側へ渡った先なのである。当然市中心部とは全面陸続きなので、逃亡はある程度容易だったものと思われる。
もちろん著者が逃亡を諦めた理由が、地理的条件だけではないという事は、本書を読めばよく分かるが、もし上記のような地域の地理情報を持っていたらどうしただろうか、というのは興味深い妄想である。


市橋達也
逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録