借りぐらしのアリエッティ
またボチボチとブログ再開します。
たまたま時間があったので、積み録画を消化。まずは、昨年末放映の金曜ロードショーでのジブリアニメについて。
総合的にみて、アニメ映画としてそこそこの作品ではないだろうか。
壮大な物語背景やドラマ性の表現に乏しいので地味な印象を受けるが、それでも前半の冒険感は結構なものだし、なにより丁寧に描かれた「小さな世界」の手触りが好印象である。こびと、という存在を完全にリアルに追求する事はこの映画の趣旨ではないしそもそも不可能だ。しかし、水滴の表面張力の表現などで上手くスケール感を出している点は多くの人が楽しめたろう。他にも、まち針の剣や、釘の階段、豆電球とボタン電池のランタンなど、道具類をちりばめた楽しい工夫があった。個人的にはもう少し重力低減感を出すと良かったと思うが、やりすぎると世界観を損ねるのでこの程度がよしだろう。
表面的にこびとの冒険映画として観ても十分楽しめる作りだ。
アリエッティと翔の描かれ方については、感銘を受け、深く納得した印象。
映画の惹句として、アリエッティと翔を指して、「恋」の印象を語るものがあった。テレビ版の案内だけかも知れないが、これは解せない解釈だと思う。
二人の関係に、恋は存在しえないと思う。なぜなら、二人は異種族であるから。こびとというものは人に似ていても人ではない。人とこびとの間には、厳然とした種族の隔絶が存在するのだ。だからこびと達は人間との接触を避け、見つかれば直ちに引っ越す事を余儀なくされる。
アニメでファンタジーとして描かれるから分かりにくいだけで、これは、未知との遭遇のようなファーストコンタクトものと底は同じである。圧倒的な異種族は、一方を簡単に葬り去る事ができる。
そんな存在にいきなり恋するというのはかなり異端かつ倒錯的だろう(愛・憶えていますかのシーンを彷彿とした向きもあるかも知れないが)。
同様に、なぜ引越などせずに理解のある翔に頼らないのか、というような疑問も、それは種族の違いを考えれば当然あり得ないものである事が分かるだろう。
しかし、アニメなど物語での擬人化に慣れ親しみすぎた日本人にはこの隔絶感は逆に伝わりにくい可能性がある。
アリエッティと翔がポピーの揺れる野原で会話をするシーンには特に感銘を受けた。
静かな微笑みを湛えて、「君たちは滅び行く種族だ」と語る翔。
まず上記のように、会話の通じる異種族間での互いの存亡に関するコミュニケーションという意味でのインパクト。
そして、心臓の病を抱え、自らの余命幾ばくもない事を悟った少年が、自らの命の灯し火と目前のか弱き種族の命運を重ね合わせ、同じ境遇にある者として、種族を越えた共感と親近を寄せる表現なのである。
そして素晴らしいのは、それが見事なまでに小児的自己愛的で一方的である事だ。
翔は自らのこの世に残せる行為として、こびとの救済を願う。しかし、それが全く無用のお節介であるばかりか、最終的にはアリエッティ一家の生活を破壊し、引越を余儀なくしてしまう。
相手の意見も聞かず、良い物だからといきなり家を破壊してキッチンを入れ替える暴挙に、相手を思いやる配慮は微塵もない。しかも相手が気に入ってくれたものとばかり思っている始末。善意ほど怖い物はないのだ。
最初は様子を見ようとしていたアリエッティの父が、この時点で引越を即断したのは、家長として的確な判断であっただろう。
翔の純粋な気持ちに嘘偽りはない。それゆえ、返って手に負えないのだ。
人が恐ろしいのは決して悪意からではない。その事を十分に彼は理解していたのだろう。
まだそこまでの理解のないアリエッティは、好奇心溢れる知性として翔の気持ちを汲み、その交友に惹かれながら、同時に生活者としての存亡の危機を招く翔に困惑している。その戸惑いの気持ちが良く描けていたと思う。
所詮、理解できないのである。理解し得ないのである。
会話が通じ感情が分かっても尚理解し得ないモノの象徴が翔であり、意思の疎通すらなく全く理解の外である存在の象徴が、お手伝いのハルなのであろう。
こうした異種族間のすれ違いつつの交友を描きながら、それは同時に、人間社会の真理をも描いている。何の事はない、同種族間であってもそもそも理解など覚束ないのである。
部族の争い、国家の諍い、地域の対立、家族の不和。なべて人の世は、無理解による隔絶と摩擦に溢れる。
このアニメ、そしてその原作が、こうした人の世の哀しきすれ違いをファンタジーの形で投影した物である事は間違いないだろう。借り暮らしという境遇で好奇心一杯に強く生きるアリエッティの姿に、屋根裏のアンネを思い起こした人は多いはずである。
無理解により翔の善意は迷惑にしかならなかった。しかし、自己中心的な物であったとしても、こびとたちの、アリエッティの役に立ちたいという翔の気持ちは届いた。そして翔を頼ったアリエッティに応える事ができた。
そうした僅かな自負が翔に生きる気力を持たせ、手術に挑む勇気を与えた。
ラストシーン、「守ってくれて嬉しかった」というアリエッティに、「君は僕の心臓の一部だ。忘れないよ」と告げる翔。
翔の心臓は、早ければあさってには止まるかも知れない。病のために滅び行く事を運命づけられている。しかし、同じ境遇であるアリエッティは、力の限り生きようとした。そんなアリエッティの力に僅かなりともなれた自分は、同じように力の限り生きる事ができるかもしれない。この広い空の下、どこかの家の隅で、借り暮らしをしながら懸命に生きてゆく種族を想いながら、自分も一緒に生きる事に頑張れるかも知れない。こうした想いが止まりそうな翔の心臓を動かしてくれる。アリエッティが一緒に鼓動を刻んでくれるのだ。
翔の心臓も、アリエッティも、ともに滅び行く定めの者として、種族を越えた連帯を通わせ、そしてともにその宿命に挑む朋友である事を知ったのだ。たとえ手を携える事が無くとも。もう二度と会う事はなくとも。
こうした感慨が、映画を見終わった後に、じわりと沁みてくる、そんな作品だった。
正直、子供にはちょっと難しいかも知れない。まあ、分かり易く作れなかったという制作側の力量の問題なのではあるが。

借りぐらしのアリエッティ
たまたま時間があったので、積み録画を消化。まずは、昨年末放映の金曜ロードショーでのジブリアニメについて。
総合的にみて、アニメ映画としてそこそこの作品ではないだろうか。
壮大な物語背景やドラマ性の表現に乏しいので地味な印象を受けるが、それでも前半の冒険感は結構なものだし、なにより丁寧に描かれた「小さな世界」の手触りが好印象である。こびと、という存在を完全にリアルに追求する事はこの映画の趣旨ではないしそもそも不可能だ。しかし、水滴の表面張力の表現などで上手くスケール感を出している点は多くの人が楽しめたろう。他にも、まち針の剣や、釘の階段、豆電球とボタン電池のランタンなど、道具類をちりばめた楽しい工夫があった。個人的にはもう少し重力低減感を出すと良かったと思うが、やりすぎると世界観を損ねるのでこの程度がよしだろう。
表面的にこびとの冒険映画として観ても十分楽しめる作りだ。
アリエッティと翔の描かれ方については、感銘を受け、深く納得した印象。
映画の惹句として、アリエッティと翔を指して、「恋」の印象を語るものがあった。テレビ版の案内だけかも知れないが、これは解せない解釈だと思う。
二人の関係に、恋は存在しえないと思う。なぜなら、二人は異種族であるから。こびとというものは人に似ていても人ではない。人とこびとの間には、厳然とした種族の隔絶が存在するのだ。だからこびと達は人間との接触を避け、見つかれば直ちに引っ越す事を余儀なくされる。
アニメでファンタジーとして描かれるから分かりにくいだけで、これは、未知との遭遇のようなファーストコンタクトものと底は同じである。圧倒的な異種族は、一方を簡単に葬り去る事ができる。
そんな存在にいきなり恋するというのはかなり異端かつ倒錯的だろう(愛・憶えていますかのシーンを彷彿とした向きもあるかも知れないが)。
同様に、なぜ引越などせずに理解のある翔に頼らないのか、というような疑問も、それは種族の違いを考えれば当然あり得ないものである事が分かるだろう。
しかし、アニメなど物語での擬人化に慣れ親しみすぎた日本人にはこの隔絶感は逆に伝わりにくい可能性がある。
アリエッティと翔がポピーの揺れる野原で会話をするシーンには特に感銘を受けた。
静かな微笑みを湛えて、「君たちは滅び行く種族だ」と語る翔。
まず上記のように、会話の通じる異種族間での互いの存亡に関するコミュニケーションという意味でのインパクト。
そして、心臓の病を抱え、自らの余命幾ばくもない事を悟った少年が、自らの命の灯し火と目前のか弱き種族の命運を重ね合わせ、同じ境遇にある者として、種族を越えた共感と親近を寄せる表現なのである。
そして素晴らしいのは、それが見事なまでに小児的自己愛的で一方的である事だ。
翔は自らのこの世に残せる行為として、こびとの救済を願う。しかし、それが全く無用のお節介であるばかりか、最終的にはアリエッティ一家の生活を破壊し、引越を余儀なくしてしまう。
相手の意見も聞かず、良い物だからといきなり家を破壊してキッチンを入れ替える暴挙に、相手を思いやる配慮は微塵もない。しかも相手が気に入ってくれたものとばかり思っている始末。善意ほど怖い物はないのだ。
最初は様子を見ようとしていたアリエッティの父が、この時点で引越を即断したのは、家長として的確な判断であっただろう。
翔の純粋な気持ちに嘘偽りはない。それゆえ、返って手に負えないのだ。
人が恐ろしいのは決して悪意からではない。その事を十分に彼は理解していたのだろう。
まだそこまでの理解のないアリエッティは、好奇心溢れる知性として翔の気持ちを汲み、その交友に惹かれながら、同時に生活者としての存亡の危機を招く翔に困惑している。その戸惑いの気持ちが良く描けていたと思う。
所詮、理解できないのである。理解し得ないのである。
会話が通じ感情が分かっても尚理解し得ないモノの象徴が翔であり、意思の疎通すらなく全く理解の外である存在の象徴が、お手伝いのハルなのであろう。
こうした異種族間のすれ違いつつの交友を描きながら、それは同時に、人間社会の真理をも描いている。何の事はない、同種族間であってもそもそも理解など覚束ないのである。
部族の争い、国家の諍い、地域の対立、家族の不和。なべて人の世は、無理解による隔絶と摩擦に溢れる。
このアニメ、そしてその原作が、こうした人の世の哀しきすれ違いをファンタジーの形で投影した物である事は間違いないだろう。借り暮らしという境遇で好奇心一杯に強く生きるアリエッティの姿に、屋根裏のアンネを思い起こした人は多いはずである。
無理解により翔の善意は迷惑にしかならなかった。しかし、自己中心的な物であったとしても、こびとたちの、アリエッティの役に立ちたいという翔の気持ちは届いた。そして翔を頼ったアリエッティに応える事ができた。
そうした僅かな自負が翔に生きる気力を持たせ、手術に挑む勇気を与えた。
ラストシーン、「守ってくれて嬉しかった」というアリエッティに、「君は僕の心臓の一部だ。忘れないよ」と告げる翔。
翔の心臓は、早ければあさってには止まるかも知れない。病のために滅び行く事を運命づけられている。しかし、同じ境遇であるアリエッティは、力の限り生きようとした。そんなアリエッティの力に僅かなりともなれた自分は、同じように力の限り生きる事ができるかもしれない。この広い空の下、どこかの家の隅で、借り暮らしをしながら懸命に生きてゆく種族を想いながら、自分も一緒に生きる事に頑張れるかも知れない。こうした想いが止まりそうな翔の心臓を動かしてくれる。アリエッティが一緒に鼓動を刻んでくれるのだ。
翔の心臓も、アリエッティも、ともに滅び行く定めの者として、種族を越えた連帯を通わせ、そしてともにその宿命に挑む朋友である事を知ったのだ。たとえ手を携える事が無くとも。もう二度と会う事はなくとも。
こうした感慨が、映画を見終わった後に、じわりと沁みてくる、そんな作品だった。
正直、子供にはちょっと難しいかも知れない。まあ、分かり易く作れなかったという制作側の力量の問題なのではあるが。