理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性/高橋昌一郎 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性/高橋昌一郎

大変楽しく読めた。

会社員、哲学者、社会学者、科学者、大学生、などなど、いろんな立場の人間が主題について意見を述べ合うというシンポジウム形式、対話形式として、非常にテンポ良く疑問を提示し、解説し、議論を進めてゆく。

読み物として非常に読みやすいし、割と物語としての構成も上手い。

内容としては、ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ」やペンローズの「皇帝の新しい心」などを、えいっとばかり圧搾して、アロウの不可能性定理などの社会学的理論を付け加えた印象か。

表題通り、まず第一に人間の理性には限界があるということを伝えよう、という本である。
哲学者にならずとも論理学者にならずとも、数学も科学も使わない生活を送ったとしても、それでも、真実の一片を知って生きるのと知らずに生きるのとでは、たとえ直接それを活かす場面など無かったとしても、人生の質が劇的に変わってくるだろうと、著者同様、私も思う。
特に、何となく当たり前と思いこんで多忙な日々の中で顧みることもない、我々の生活、社会、生命、そして宇宙の有り様を、見つめ返し、しっかりと噛みしめて生きることは、有期である人生の密度を飛躍的に高めるに違いない。

人間の肉体的能力には限界がある。例えば、100m走の記録が、8秒7秒6秒とどこまでも更新されていく訳ではないだろうという予感は、大抵の人には皮膚感覚として説明不要のものだろう。現在の人間の肉体としては、100m走は9秒前半台に限界が来るであろうという予想に異議を唱える人は少ないはずだ。

同様に、人間の理性にも限界があるのだ。理性とは何だろうか?それは、合理性、平たく言えば、より正しい事柄を考えて判断する事のできる知性のことである。
そしてその限界とは、個人的能力の限界ではない。4本足の人類が誕生しない限り100m走の限界があるように、どんな天才が今現在分かっている知識を総動員したとしても、そもそも原理的に完全に合理的には判断することができない事柄が存在するのである。それを、「選択」「科学」「知識」の3つの限界を示すことであらわにしてゆく。

「選択」の限界とは、アロウの不可能性原理が厳密に証明したものであり、平たく言うと、民主主義の元で民意を合理的に反映させる為の方法は存在しない、と言うものだ。
「科学」の限界とは、ハイゼンベルグの不確定性原理であり、原理的に人間には観測し得ない物理量の組があるという事を現している。観測の確率的解釈も併記されている。
「知識」の限界とは、ゲーデルの不完全性定理であり、論理学や数学などの形式論理に関して、証明し得ない、言及し得ない領域があることを示している。

これらの原理は、元よりその各の前提を踏まえて厳密に証明されているが、人間の知性がその前提に縛られるかどうかはまた別の問題であるし、人間でない知性を考える場合には、当然、別の前提が必要になってくるだろう。また、アロウの不可能性原理は人間の選好性というものが単純すぎるモデル化をされているし、チューリングマシンもかなり古めかしい模型だと思う。その辺りに限界突破のとっかかりがありそうだ。

著者の専門を考えれば致し方ないかもしれない、科学の章は、かなりあやふやな展開となっている点が惜しい。

いずれにしても、大変興味深く面白い本であることは間違いない。丁寧にかみ砕いて解説されているので高校生以上なら十分に読みこなせるだろう。

同じ著者の、「知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性」という続編的な書籍も出ているようなので、是非読んでみたい。

高橋昌一郎
理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性