赤灯えれじい/きらたかし | 読んだり観たり聴いたりしたもの

赤灯えれじい/きらたかし

職場で4巻セットを拾ったので読んでみた。

いじめられっ子だった高卒フリーターサトシと、交通誘導員のバイトで出会った気の強い金髪女チーコとの、真っ直ぐには行かない恋愛模様を描いたコメディ。
ダメ男が高嶺の花にふさわしい男になろうと健気に成長していく話なのだろう(まだ4巻なので後半不明)。

タイトルにえれじいと入っているように、大阪の下町を舞台として、夢がない主人公、正規雇用の壁と格差、過労死、借金苦、貧乏、高校生のデキ婚と、取り巻く環境は地味で陰気で華も無い。良く言えば現実的という事だろう。

サトシは夢無し定職無し意気地なし、おまけに腰痛持ちで、妄想だけはたくましいという筋金入りのダメ男である。もちろん今後の成長という希望はあるし、ここまででもわずかな成長はある。その辺りを加味しても、この男をどう評価するかによってこの漫画全体の評価が変わってくるだろう。
例えば、妻は、彼のダメっぷりを受け入れられず拒否した。女性視点ではそうした感想が大半かも知れない。そもそもチーコがなぜサトシを好きなのかがよく分からない。が、これはサトシのそうした自信のなさをサトシ視点から精密に表現したものなのだろう。
また、サトシとよく似た境遇の若年男性も、多分、同族嫌悪でこの漫画を読みたいと思わないのではないか。
結局、現在はそこそこ安定した生活を送る壮年男性が、ノスタルジーでという形で評価するパターンが一番想像としてしっくり来るようだ。
そうした視点で見直すと、どこか古くささの漂う線画や人物造形は、そうした効果を狙ってのことではないかと思えてくる。

壮年男性は、サトシに何を見るのか?
サトシの成長に、自分がたどった苦難だった成長の道程を重ねても良いし、それを彼に期待して応援しても良い。
また逆に、サトシの駄目さに、そこから隔たった自分の優位を誇っても良い。
いずれにしても、目線は過去に向かっており、あくまで鑑賞が目的であって、フィードバックは期待していないという点が特徴として挙げられる。
これがこの漫画がコメディを装いながら常に纏っている暗さの本質であり、タイトルのえれじいが象徴しているこの漫画の主題である。

ダメ男のボーイミーツガールというと、私の中で真っ先に浮かぶのが、めぞん一刻である。
だが、しばしば失敗し、周囲に振り回されながらも、五代くんは頑張った。もちろんサトシも頑張ってはいるが、五代くんの頑張りには、見た人が投影した気持ちを一回り大きく育てて見た人へ返す、明るい力が満ちていた。サトシにはそれがない。それは20年の隔たりをはさんだ時代性の相違という事ではない。80年代が明るい時代だったとは思わないし、今が暗く陰惨な時代だとも思わない。
五代くんと違い、サトシの成長と努力には、救いがないのだ。
そして、救いがないと分かっていながら、せめてその枠の中でなんとかあがき、もし昨日より僅かでも浮いていたならそれを救いと思わざるを得ない、サトシ本人も気づいていないこの明るい哀しみが物語の隅々まで静電気のように満ちている。
救いの無さが持つ本来的な救い。
それはつい先日読んだ、「忘れられた日本人」で浮き彫りにされていた、民俗的な特質ではなかったか。
百年前の百姓と、現代の都会人が、驚くことにこうして繋がってくるのだ。本は読むものである。
平たく言えば、人間なんて100年経っても中身は変わらないものだ、というところだろうか。
では、五代くんはなぜこのラインから外れているのだろう。
それは下世話に言えば、学である。五代くんは、曲がりなりにも大卒で、デキはともかく向学心をもった青年だった。ほんの些細な違いだろうと思う。心の片隅に芽生える本当に小さな意識の差である。だが、その差が、人間の精神の向かう方向を、従ってその肉体の行動を、圧倒的に運命づける。人間が、自分を自分自身の手で救おうと思うなら、知恵と知識を持たねばならないのだ。

決してサトシの生き方を否定しているのではない。ひとはどのような状況でもひととして生きていける強さを持っている。そしてひとが生きるどの人生の価値も皆等しく尊いのだ。例えそれが広い空を窓から覗くことも知らない人生であったとしても。

救いのない運命を甘受するのか、それとも哀歌のくびきから逃れるのか、サトシとチーコの物語がどのような結末を迎えるのか、機会があれば読んでみたいと思う。

きらたかし
赤灯えれじい