君に届け/椎名軽穂 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

君に届け/椎名軽穂

もちろん、この作品の事は既に書いている訳だが、もう一回書いてみた。

最近、この作品にかなり心酔しているのである。平たく言えばメロメロだ。

前回は2巻まで読んだところでかなりの好印象と評したと記憶しているが、今現在11巻を読み終えた時点で、その評価は比較にならないほど高まっていると言わざるを得ない。今のところ本年読んだ漫画の評価ではぶっちぎりの1位である。

これまで、こつこつと1巻ずつ購入してきたのだが、9巻末の引きでどうしても爽子の決意を見届けたくなり、翌週すぐに妻が10巻を購入。最高の盛り上がりと展開ですっかり心を鷲掴みにされた。その素晴らしい10巻を何度か読み返すうちとうとう我慢できず徹夜で1巻から読み返してしまい、そのまま勢いで翌日11巻購入、というような流れである。

なぜこれほどまでに心惹かれるのだろう。
前回のエントリでも書いたような構成の巧みさはもちろんあるが、冷静に要素を分析すれば、それほど上手な絵という訳でもないし、描き込みもプレーン、ストーリーはド平凡で展開は超スローとそれほど飛び抜けた物は無い。表情の表現と台詞にはかなりセンスを感じる部分もあるが超一流という程では無い。
しかし、これらの要素が一体となって眼前のページとして存在したとき、立ち上がってくる物語世界の瑞々しさ、その空気感には素晴らしい存在感がある。それも、圧倒的な威力で畳み掛けてくるようなギラギラとした輝きではなく、ポカポカとした甘いだけの暖かさでも無く、すっと背筋が伸びるような清涼感を持った、ほのかでそれでいて決して弱々しくない青い月明かりの確かさである。爽子と風早が初めて打ち解けて会話した肝試しの夜、あのシーンで二人を包む、涼やかで静かで、そして不安と恍惚のないまぜになった息苦しいようなまだ名前の無い気持ち。この印象が私にとってはこの漫画の象徴としてまず真っ先に浮かぶのである。この目に見えないほど細い蜘蛛の糸のような、しかし決して切れることの無いじっとりとした緊張の糸がピンと一本張っていることで、物語に素晴らしい共感とリアリティを呼び起こすのだ。
作者も柱で書いていたように、前作がどろどろの愛憎劇だっただけに、今作はアホかというほどの爽やかな話にしたいという狙いでの設定だったようだ。表向きはその通りぱっと見非常に爽やかで明るいストーリーのように見えるが、前作の後遺症かはたまた作者の力量か、どんなに爽やかに人物を描いても、隠しきれない生々しい感情がかすかにじんわりと匂ってくるのだ。匂うか匂わないかという程のかすかなものでも、いやむしろかすかであれば却って、香りは人間の感情や記憶に多大な影響を与える。これが、この漫画を生気の無い人工物のような爽やか人形劇から峻別するものである。

ある意味、作者の圧倒的筆力と言っても間違いでは無い。ただ、これはあくまで想像だが、たぶんそうした計算の元に描かれているわけでは無いと思う。そうでは無くて、作者の中では、君に届けの登場人物が本当に生きて考えている人間として存在しているのだろうと思う。それほどしっかりとキャラを掴んでいるから、ぶれないし、気持ちや言葉や行動に作為が無い。無理が無いのだ。この作品がきわめて自然でリラックスした雰囲気を持つのはこのためである。

そして、斜に構えたところが無い。すべて直球勝負である。下手をすると芸の無いつまらない話となってもおかしくないほどのまっすぐさである。普通なら箸にも棒にもかからない、ありきたりで平凡なストーリーの漫画になるのが落ちだろう。
しかし、上記に挙げたような、胸ぐらを掴んで引きずられるような没入感の土壌の上でこうした王道ストーリーをやられては、もう逃げようが無い。作者の中に生きるキャラたちのドラマがそのまま直に流れ込んでくるかのように、どんなストーリーだろうと頭から丸呑みしてしまうのだ。そしてその心地よさと言ったら無い。

この漫画のファンは若い女性が大多数だろうと思うが、最終的には共感しうる心情的経験の有無が評価を分けるのは当然のことだろう。いくら素晴らしいリアリティが表現されていても、恋の経験の無い人には響く物は無い。ただ、性別はこの漫画の共感度にはあまり関係が無いと思う。爽子と風早の真摯で一途な感情の波は性差を超えた人間として不偏な本質であふれているからだ。この漫画のファンであればあるほど、彼らの言葉と気持ちに敬虔に打たれる事が多々あるだろう。爽子と風早の恋愛の持つリアリティは、取りも直さず、そのリアリティを感じている本人の経験に裏打ちされているものだから、彼らの一挙手一投足を固唾をのんで見守りつつ、自身の恋も同時に追体験している事になる。もちろんどんな恋愛物でもそうした構造は一緒である。だが、一般的なドラマとは共感度の量的な違いが大きすぎて、もはや質的な違いと言っても良いほどなのである。だから自身の恋愛経験との形式的表面的な差違がどれほどあろうとも、その一点中心の本質からだけで、この恋愛物語の存在すべてを受容できるほどに共感することができるのだ。
そして例えば、10巻での告白の際に風早が告げた台詞であり、11巻で爽子が心で誓った「大事にするから」という言葉。こうした言葉が刺さってくる。妻と交際を始めて早16年。大事にしてこれただろうか。大事に、できてない時もあったよなあ。爽子と風早に生まれたばかりのこの気持ちのように、新鮮な気持ちで新たに妻を愛しんでいきたいなあ。と一人反省会が始まったりする。初めて行ったデートの、コースや情景を思い出す。その時の感情や感覚を匂うような鮮明さで思い出せるだろうか。妻の言葉は?その表情は?そして自分は何を考えただろうか。

最初、読者の前に健気でいじらしい存在として現れる爽子だが、それは(計算された)読者の早とちりであって、巻を読み進むにつれその印象は大きく修正される。その誠実さ、心の強さ、勇気、努力、明るさ、聡明さ、優しさなど、エピソードを重ねることでそうした爽子の素晴らしい特質を十二分に知り、爽子というキャラクターの魅力を芯から理解することができる。だから、健気キャラが王子様に振り向いてもらえると言う単なるシンデレラストーリーに陥ることが無く、風早の「べたぼれ」の台詞に、微塵もご都合主義的作為を感じることが無い。風早が爽子を好きになった理由が心から納得できるし、風早なら好きにならずにはいられなかっただろうとまで思えるほどだ。
一方で、爽やかなだけの軽いキャラかと思わせる風早も、その空回りする情熱の熱さも苦悩も、そして爽子と共通する誠実さや優しさなども備えた、魅力のある芯の強い人物として徐々に浸透してくる。そして爽子が風早に惚れた訳もじんわりと腑に落ちてくるのである。ケントが言う、お似合いだと思うよ、の言葉に、本当に何の違和感も感じないのは、ここまで10巻をかけて丁寧に丁寧に二人の心情を描いてきたからに他ならない。そして本当にその過程こそがこの珠玉の作品の命であって、いくら上手な絵で表面的な人物設定やストーリー展開だけ真似したとしても絶対に生み出すことのできない本物の魅力なのである。さらにこの過程が作者の中のキャラクターに新たな命を吹き込み、より精緻に造形されたキャラクターを生み出していくスパイラルとなるのだろう。

君に届け、というタイトルが、ひとまずの告白を意味するのであるなら、この漫画のクライマックスは10巻前後でありプロットとしてはそこで終了に持ち込んでも全くおかしくない。むしろきれいに終われるだろう。
しかし、現在13巻まで出てなお連載中である。気持ちが届いた二人を、今後はどのように描いていくのだろうか。
これにはファンも賛否両論あるようだが、個人的にはだらだらと続けて欲しいと思う。それは以前にも書いたように、この漫画の神髄は、そのストーリーの展開にあるのでは無くて、その展開を描く表現のすばらしさにあるからだ。
普通の高校生が、きわめて普通に交際するさまを、これまで通り丁寧に描いてくれたら最高である。
ストーリーもプロットも分かりきっていても、それでも読みたくなるのが本当に良い漫画だと思う。そしてこの漫画は、何度も読み返したいし、何度も読んで何度も浸りたい世界を持っている。

作者なら自分の生み出したキャラに愛着が無いわけでは無いだろうが、ただ、この後の話をサブキャラメインで進めることはやめて欲しい。もちろん爽子や風早に劣らず魅力的な脇役陣だが、むやみにそこばかりを描いて無理に連載の延命を図るようでは、神がかった前半の印象が台無しになってしまうからだ。

明日あたり12巻が届くので非常に楽しみだ。たぶん、即日13巻も買ってしまうだろう。
願わくば素晴らしい漫画のままでエンドを迎えますように。
完結し読み切ったらまた感想を書きたいと思う。

椎名軽穂
君に届け