裁判員制度の正体 (講談社現代新書)/西野喜一 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

裁判員制度の正体 (講談社現代新書)/西野喜一

著者は元司法関係者で以前より裁判員制度への警鐘を鳴らしてきたらしい。この本はそうした専門誌への寄稿をまとめた物であるとか。
裁判員制度反対派の理屈がつらつらと書かれている。自分は当然反対派なので非常に腑に落ちる説明であったが、多分賛成派が読んだら逆上しそうな文章は、もうすこし押さえても良かったのでは、と思う。

著者は元司法関係者と言う事もあり、裁判官という職業の専門性を強調し、それは素人に担える職責ではないと一刀両断である。この態度は業界人の閉鎖的な奢りととらえられやすいが、よくよく考えれば至極当然の事である。

裁判員制度の根元である、市井の人々には他人を公正無比に裁く能力がある、という前提は明らかにおかしい。

これは裁判員制度を、医療に置き換えてみればわかりやすい。
例えば、手術員制度というものができたらどうだろう。これは、ガン・心臓病・臓器移植など一定以上の重大手術には、国民から無作為に選定した手術員を必ず手術に参加させなければならない、と言う制度だ。
明らかにおかしいだろう。何のためにそんな無駄で無意味な事をする必要があるのか?と疑問に思わずにはいられないだろう。まさしく、それが裁判員制度に対する最も素朴な疑問なのである。
毎日のように専門的知識を駆使し技術を磨きプロとして迅速に対処している者に対し、素人の参加は足手まといでしかないのは明白だ。無理に強行すれば手術のレベルは落ち、混乱し、患者は死ぬだろう。
例えがおかしいと言う批判はあるだろう。だが、医者が医療のプロフェッショナルなのと同様、裁判官も司法のプロフェッショナルである事に異議はないだろう。司法試験に合格し、日々職務の研鑽を積んだプロとボランティアである市井の人々が、同じように人を裁くという責務を担えるとはどうしても思えない。
私は手術を受けるときはプロの医者に担当して欲しいし、裁判を受ける事になればプロの裁判官に担当してもらいたい。
裁判員制度は、司法へ国民の声を反映し国民による司法のコントロールを行う先駆けとして必要な事だという意見がある。三権のうち、国民の意思が最も届きにくいのが司法であると。しかしこれは間違っている。必要なのは国民の直接参加ではなくて、国民による司法の評価である。現在の最高裁裁判官国民審査を拡大する方向がまともな判断だろう。
考えてみて欲しい。推進派がしばし比較に持ち出す、国民が直接関与しているという参政権ですら、無作為に選んだ国民に議員を強制任命するような暴挙はしてはいないのだ。そういえば昔読んだラファティのSFにそんな話があった。
なぜ裁判だけが一般人を強制的に参加させて判じるべきだと思われるのだろう。諸外国に多い制度だから?そんなことは何の理由にもならない。諸外国が軍備を拡大しても、自国は非軍備と思えばそれを貫けばよい。私は、この裁判員制度を含む陪審制・参審制は、著者の主張通り時代遅れの考え方であると思う。
実務はプロに任せるべきだ。そのプロが信頼できない不安があるなら、彼らを評価・監視できる透明な制度作りを進めるべきだ。

先日の新聞で、裁判員によるとある裁判が三日間の審理予定であったのに台風の影響で2日に短縮されたとのことだ。裁判員が参加する裁判は、極刑もあり得る殺人などの重大事件である。これは、都合が悪くてつきあってる時間もないので、もうあなたは死刑で良いよ、という意味である。もし自分が冤罪でこの法廷に立たされた被告であったならばと身のすくむ思いがしない人はいないのではないだろうか。さらに、良識ある人ならもし自分がこの法廷に参加を強制された裁判員であったらならと考えて肝を冷やすだろう。

西野喜一
裁判員制度の正体 (講談社現代新書)