仕事について | 読んだり観たり聴いたりしたもの

仕事について

あっという間に3ヶ月が過ぎ去っていたようだ。
今日からまたぼちぼちと書いていきたい。

しばらく書いてなかったのには訳があって、それはつまり仕事が忙しくなっていたからだ。これまで副業として位置づけていたWebショップを本業並みとして注力して立ち上げる事にしたのだ。(副業と位置づけていたのは自分の心の中だけであって、実体としては何年も前から我が家の収入の大半はそこから得られていたのだけれども。しかもその立役者は妻である)

まず、自宅兼事務所では手狭になるので、別にマンションの一室を借り営業所を造った。スタッフを2名雇い、什器を揃え、仕事のルールやシステムを見直し、営業所での仕事がうまく運ぶように調整を繰り返した。3月に試算と計画を繰り返し、4月一杯掛かってハード的な準備を整え、5月からスタッフを加えてソフト面を整えた。6月を迎えた今、ようやく8割整った感がある。きれいで広い営業所はまだ改良の余地があるとはいえ、動線もスムーズで仕事もはかどる。PCやネット関係のシステム・自宅サーバのDBとVPNでの接続関係も驚くほどうまくいった。おまけに、スタッフに恵まれた。鉦や太鼓で探しても見つからなさそうな、すごく熱意と能力のある人たちが来てくれたのだ。これほどのラッキーはない。厚遇で応えたいと思う。

営業所の開設にあたって、実は、自分の中で一つのしこりがあった。
この6年間、自由気ままに生きてきた。寝たい時に寝て、起きたい時に起き、仕事をしたい時にした。
が、これからはまた「始業時間」に縛られる生活に戻るのだ。スタッフが来る手前、始業時間にはちゃんと営業所の鍵を開けて待っていなければならない。少なくとも数年は。
興が乗った本を朝まで読み、昼過ぎまで寝て、そのままその日は休みにする、などと言う事ももう出来ない。
この変化は自分にストレスを与えるものだろうかと心配した。

ところが、意外にも全くストレスはなかった。
4年間の会社勤めの時には、日曜の夜は憂鬱であった。明日の朝の出勤を考えると、夏休みが終わったような切ない気分を毎週味わったものだ。遅刻してはいけない起きなければいけないという緊張と責任感が、寝ても覚めても小さいながらもチクチクと良心を小突いて片時も離さない。そんな感じだった。
でも、自分の営業所には、全く苦にならず行く事が出来て驚きだった。行くのが面倒だとちらっと感じる事さえ、(今のところ)全くない。仕事の内容については関係なく、毎日決められた時間に決められた場所に行かなければならないと言う責務にたいしての感じ方が、受動と能動の差なのかも知れないが、これだけ違うのだとは驚きであった。
思えば件の会社でも社長は誰より早く出社してなんやかんやとやっていたし、そういう経営者は多いようである。
まあ、当たり前の話ではある。自分が作った会社に、自分が行くのが嫌なようでは、そんな会社は早晩潰れてしまうだろうと誰しも思うだろう。

気を付けないといけないのは、自分が苦ではないからと、誰もがそうだと思いこむ事である。
実際、妻には若干日曜の夜現象があるようである。営業所で一番頑張って仕事をして支えているのが彼女でありその労力と気力体力の消耗を考えると、自分はもう少し妻を気遣って支えるべきだと思う。
スタッフもそうだ。どんなに楽しそうに仕事をしていたとしても、彼らにとって、この仕事と仕事場が単に生活費を稼ぐ以上の意味のあるものだ等と勘違いする事は、肝に銘じて避けなければならない事である。
昔、労働者一人一人が経営者の心を持って仕事に取り組んで欲しいとほざいた経団連の偉いさんがいたが、寝言は寝てから言うべきである。経営者の心を持って仕事をしろというなら、経営者に相応しい賃金を払うべきだろう。
人は常に自分の立場でしか考えられないものだ。長年労働者をやっていても、立場が変われば、その気持ちを簡単に忘れてしまう。お受験ママが、自分が受験生だった時の気持ちを忘れてしまうように。誰しも車を運転する時は歩行者のマナーを糾弾し、その直後に道を歩いている時は車の無謀運転を叱責するものだ。