会社はこれからどうなるのか/岩井克人
以前書いた法人論「会社はだれのものか」の前書にあたる。
こちらの方がじっくりと理論的にも突っ込んであり、読むなら断然こっちが面白い。
さらに、前書は、多くの人に興味を持ってもらうためか、「こういう事があるそれはなぜか。それはこうこうこういうことだ」という語り口が多かったのに対し、こちらは「こういう事を考える。するとこうこうこういう事が演繹できる」という非常に理系向きの書き方で読みやすい。
内容的には前書とそれほどは変わらないが、法人の二重性といった法人論をみっちりやった後、貨幣論、ポスト産業資本主義と進んでいく。
IT革命や経済のグローバル化がポスト産業資本主義をもたらしたのではなく、産業資本主義の収束という変化が圧力となってIT革命やグローバル化の引き金を引いた、引かざるを得なかったという主張は非常に興味深い。
岩井氏の法人論の主張は、簡単に説明するとこうである。
1.法人企業とは法律上のヒトであり、会社の資産というモノを所有し、ヒトとして他の人間と契約を交わして経済活動を行う一方、法人自身も株式支配を通して株主によってモノとして扱われるという二重性を有している。アメリカの株主主権論は法人=モノという主旨に傾きすぎた主張であり、戦後の日本型経済は法人=ヒトとして強く捉えた考え方が優勢であった。
2.これまでの産業資本主義の世界では、カネ・資産・工場設備をもっていれば、農村と都市などの労働市場の流れによって、自動的に利益を上げる事が可能であった。つまり法人=モノという図式で誤差が少ない。
3.しかし安価な労働者の供給が止まるとこの構図は崩れ去り、カネ・資産・工場設備を持っているだけでは利益を上げられず、他社との競争により差別化を図ってようやく利益に結びつく時代へと変わってきた。
3.カネを持っていて産業に投資してもかんたんには儲からない、つまり相対的にカネの価値が下がってきたのであり、これがポスト産業資本主義であり、この状況下で利益の改善を図るべく、金融のグローバル化やIT革命が模索された。
4.今後の企業はモノとして存在するだけでは利益が上がらない。利益を上げるためには差別化が必要であり、そしてそのような差別化を安定して生み出せるのはそこで働くヒトとその組織に他ならない。
5.いくら株を買い占めて企業をモノとして所有しても、そこで働く「ヒトの心」までは買収できない。それゆえ株主主権論的な買収では法人のモノとしての側面は入手できても、差別化から利益を生み出す機能・価値は手に入れられない可能性がある。
6.企業の経営者はヒトとしての法人から経営を信託された者であり、その行動には高い倫理性が要求される。つまり、企業経営者の行動は法律によって規制される必要がある。経営者を大口の株主として株主のために行動させようとする米国型の企業統治法は、エンロン事件に代表されるように、経営者が自身の刹那の利益のために行動する事を防げず、結局法人にとっても株主にとっても有益でない。
大変面白い主張だと思う。法人企業が法人として社会から認知を受ける事を可能とするのは、その法人が社会にとって必要だとされている事が根拠となる、という主張にはうなずく人も多いだろう。営利企業は営利が目的ではない。社会事業が目的であり、その社会事業を営利運営しますとうい基本が抜けたら存在意義がないと思う。
岩井さんは、今後はもうすこし差別化の内容を研究されたらどうかと思う。というのは、資本主義における価値の源泉は何かという事について、マルクスの労働価値説からはじまっていろんな説がある訳だが、氏は差別化というものに源泉をおいており、そもそも差別化・差異というものはかんたんに定義できるようなものではないからだ。
あるモノが他の似たようなモノとは、違うんだ、こちらは価値があるんだ、という判断は、数字では表せない人間の認知の問題になってしまう。しかも下手をすると、AがBに比べて差別化されているのは何故かというと、AがBに比べて差別化されているとみんなが言っているからだ、差別化というものの自己撞着も考えられる訳で、非常に難しく興味深い。
商品の差別化というけれど、結局物自体はそんなに変わらなくても、口八丁で興味を引けば売れるんだ、結局どれだけ法律に掛からずにスマートに騙せるかだ、という勢力も台頭するだろう。
どんなに良いモノを作っても、良いと言うだけでは売れない時代とは、ある意味おかしいとも言える。差別化を図らなくても、ただ単に普通のモノが、普通の良品が求められる場合も社会生活においては多数あるし、常に差別化を図る人ばかりが富を得、当たり前の仕事を当たり前に行う人が割を食うような社会は、その社会基盤を支えている多数の「当たり前の仕事」の量も質も、いずれ疲弊せざるを得ないからだ。当たり前に潤沢にある事が前提の産業・サービスと差別化は共存し得ない可能性がある。
もしポスト産業資本主義がこうしたフィードフォワードが働くような経済構造なのであるとしたら、産業としての社会基盤はむしろ行政的な規制と補助が欠かせない事になり、これはいわゆる小さな国家の逆の方向性となってしまう。このような事は考えられないだろうか。
岩井克人
会社はこれからどうなるのか
こちらの方がじっくりと理論的にも突っ込んであり、読むなら断然こっちが面白い。
さらに、前書は、多くの人に興味を持ってもらうためか、「こういう事があるそれはなぜか。それはこうこうこういうことだ」という語り口が多かったのに対し、こちらは「こういう事を考える。するとこうこうこういう事が演繹できる」という非常に理系向きの書き方で読みやすい。
内容的には前書とそれほどは変わらないが、法人の二重性といった法人論をみっちりやった後、貨幣論、ポスト産業資本主義と進んでいく。
IT革命や経済のグローバル化がポスト産業資本主義をもたらしたのではなく、産業資本主義の収束という変化が圧力となってIT革命やグローバル化の引き金を引いた、引かざるを得なかったという主張は非常に興味深い。
岩井氏の法人論の主張は、簡単に説明するとこうである。
1.法人企業とは法律上のヒトであり、会社の資産というモノを所有し、ヒトとして他の人間と契約を交わして経済活動を行う一方、法人自身も株式支配を通して株主によってモノとして扱われるという二重性を有している。アメリカの株主主権論は法人=モノという主旨に傾きすぎた主張であり、戦後の日本型経済は法人=ヒトとして強く捉えた考え方が優勢であった。
2.これまでの産業資本主義の世界では、カネ・資産・工場設備をもっていれば、農村と都市などの労働市場の流れによって、自動的に利益を上げる事が可能であった。つまり法人=モノという図式で誤差が少ない。
3.しかし安価な労働者の供給が止まるとこの構図は崩れ去り、カネ・資産・工場設備を持っているだけでは利益を上げられず、他社との競争により差別化を図ってようやく利益に結びつく時代へと変わってきた。
3.カネを持っていて産業に投資してもかんたんには儲からない、つまり相対的にカネの価値が下がってきたのであり、これがポスト産業資本主義であり、この状況下で利益の改善を図るべく、金融のグローバル化やIT革命が模索された。
4.今後の企業はモノとして存在するだけでは利益が上がらない。利益を上げるためには差別化が必要であり、そしてそのような差別化を安定して生み出せるのはそこで働くヒトとその組織に他ならない。
5.いくら株を買い占めて企業をモノとして所有しても、そこで働く「ヒトの心」までは買収できない。それゆえ株主主権論的な買収では法人のモノとしての側面は入手できても、差別化から利益を生み出す機能・価値は手に入れられない可能性がある。
6.企業の経営者はヒトとしての法人から経営を信託された者であり、その行動には高い倫理性が要求される。つまり、企業経営者の行動は法律によって規制される必要がある。経営者を大口の株主として株主のために行動させようとする米国型の企業統治法は、エンロン事件に代表されるように、経営者が自身の刹那の利益のために行動する事を防げず、結局法人にとっても株主にとっても有益でない。
大変面白い主張だと思う。法人企業が法人として社会から認知を受ける事を可能とするのは、その法人が社会にとって必要だとされている事が根拠となる、という主張にはうなずく人も多いだろう。営利企業は営利が目的ではない。社会事業が目的であり、その社会事業を営利運営しますとうい基本が抜けたら存在意義がないと思う。
岩井さんは、今後はもうすこし差別化の内容を研究されたらどうかと思う。というのは、資本主義における価値の源泉は何かという事について、マルクスの労働価値説からはじまっていろんな説がある訳だが、氏は差別化というものに源泉をおいており、そもそも差別化・差異というものはかんたんに定義できるようなものではないからだ。
あるモノが他の似たようなモノとは、違うんだ、こちらは価値があるんだ、という判断は、数字では表せない人間の認知の問題になってしまう。しかも下手をすると、AがBに比べて差別化されているのは何故かというと、AがBに比べて差別化されているとみんなが言っているからだ、差別化というものの自己撞着も考えられる訳で、非常に難しく興味深い。
商品の差別化というけれど、結局物自体はそんなに変わらなくても、口八丁で興味を引けば売れるんだ、結局どれだけ法律に掛からずにスマートに騙せるかだ、という勢力も台頭するだろう。
どんなに良いモノを作っても、良いと言うだけでは売れない時代とは、ある意味おかしいとも言える。差別化を図らなくても、ただ単に普通のモノが、普通の良品が求められる場合も社会生活においては多数あるし、常に差別化を図る人ばかりが富を得、当たり前の仕事を当たり前に行う人が割を食うような社会は、その社会基盤を支えている多数の「当たり前の仕事」の量も質も、いずれ疲弊せざるを得ないからだ。当たり前に潤沢にある事が前提の産業・サービスと差別化は共存し得ない可能性がある。
もしポスト産業資本主義がこうしたフィードフォワードが働くような経済構造なのであるとしたら、産業としての社会基盤はむしろ行政的な規制と補助が欠かせない事になり、これはいわゆる小さな国家の逆の方向性となってしまう。このような事は考えられないだろうか。