死にゆく母との思い出
廊下の片隅に積み上げられていた、ビデオデッキと、DVDプレイヤーが消えていた。
俺の娘の母親が、遂に処分したようだ。
無性に腹が立った。
何かを奪われたような、やり切れなさ、だった。
昨晩までは、確かにそこにあったであろう廊下の片隅を、俺はただ見つめていた。
周囲から切り離された意識が、過去へとさかのぼって行く。
頭の中に、まだ動いていた頃のビデオデッキが現れた。
それから、父と母との出来事が、脳裏に浮かんだ。
母は癌だった。
末期。
もう、手の施しようがなく、治療は延命ではなく、ただ痛みを和らげるものだった。
母は、自分が癌であることを、知らなかった。
癌であることを患者に告知しない。
その当時、それが当たり前だった。
痩せ痩けた母は、痛みに襲われた時、痛み止めを使うことを、出来るだけ避けていた。
薬の使いすぎはよくないと、医者から聞かされていたし、自分は治るものと信じていたからだ。
俺は、そんな母を見ていられなかった。
耐えられなかった。
父は毎日病院へ足を運んだが、俺は在りもしない用事を作り上げ、なるべく病院へ行かないようにした。
母に会う度に、死が近づいているのが、はっきりとわかった。
それでも、母が死ぬことなど信じられなかった。
突然奇跡が起こって、母の癌がきれいさっぱり消え去るかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
病状が進むと、母はもう、痛み止めを使うことに、躊躇しなくなった。
そして、痛み止めを使う間隔が、短くなっていく。
ある時母に、テレビ番組の録画を頼まれた。
何か工芸品のようなものを制作する、趣味講座の番組だった。
毎回三十分位の放送で、どの位の期間、放送されるのかすらよくわからなかった。
母は多分、この録画を観る事は、出来ないだろう。
そう思う反面、この番組を全て録画すれば、母は助かるかもしれないと、俺は信じ込もうとしていた。
母が遺体となって、家に帰って来たあの晩。
母は、変わり果てた姿だった。
無惨なほど痩せ細り、母が元気だった頃の面影は、どこにもなかった。
布団がかけられた母の遺骸の側で、俺は、録画した番組を再生した。
ビデオデッキの微かな唸り。
母の魂が、まだここに存在し、俺と一緒にビデオを観ているのだと思いたかった。
俺は母に、何もしてあげられなかった。
そして、母の闘病生活から眼をそらしてきた。
深夜。
母の遺骸の傍らで、俺はむせび泣いた。
どの位、そうしていたのだろうか。
俺はひとしきり泣きわめくと、もう泣くことはなかった。
母が死んだのに、一晩中泣けない自分が、酷く薄情なように思えた。
その日が、家で母と過ごす最後の日だった。
俺は母の隣に、布団をひき、横になった。
そのまま眼を閉じた。
ビデオは流し続けていた。
テレビから流れる音声と、ビデオの微かなモーター音。
それ以外は何も聞こえない。
俺は耳をすませた。
ひょっとしたら、母の寝息が聞こえるかもしれない、と、思いながら。
俺の娘の母親が、遂に処分したようだ。
無性に腹が立った。
何かを奪われたような、やり切れなさ、だった。
昨晩までは、確かにそこにあったであろう廊下の片隅を、俺はただ見つめていた。
周囲から切り離された意識が、過去へとさかのぼって行く。
頭の中に、まだ動いていた頃のビデオデッキが現れた。
それから、父と母との出来事が、脳裏に浮かんだ。
母は癌だった。
末期。
もう、手の施しようがなく、治療は延命ではなく、ただ痛みを和らげるものだった。
母は、自分が癌であることを、知らなかった。
癌であることを患者に告知しない。
その当時、それが当たり前だった。
痩せ痩けた母は、痛みに襲われた時、痛み止めを使うことを、出来るだけ避けていた。
薬の使いすぎはよくないと、医者から聞かされていたし、自分は治るものと信じていたからだ。
俺は、そんな母を見ていられなかった。
耐えられなかった。
父は毎日病院へ足を運んだが、俺は在りもしない用事を作り上げ、なるべく病院へ行かないようにした。
母に会う度に、死が近づいているのが、はっきりとわかった。
それでも、母が死ぬことなど信じられなかった。
突然奇跡が起こって、母の癌がきれいさっぱり消え去るかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
病状が進むと、母はもう、痛み止めを使うことに、躊躇しなくなった。
そして、痛み止めを使う間隔が、短くなっていく。
ある時母に、テレビ番組の録画を頼まれた。
何か工芸品のようなものを制作する、趣味講座の番組だった。
毎回三十分位の放送で、どの位の期間、放送されるのかすらよくわからなかった。
母は多分、この録画を観る事は、出来ないだろう。
そう思う反面、この番組を全て録画すれば、母は助かるかもしれないと、俺は信じ込もうとしていた。
母が遺体となって、家に帰って来たあの晩。
母は、変わり果てた姿だった。
無惨なほど痩せ細り、母が元気だった頃の面影は、どこにもなかった。
布団がかけられた母の遺骸の側で、俺は、録画した番組を再生した。
ビデオデッキの微かな唸り。
母の魂が、まだここに存在し、俺と一緒にビデオを観ているのだと思いたかった。
俺は母に、何もしてあげられなかった。
そして、母の闘病生活から眼をそらしてきた。
深夜。
母の遺骸の傍らで、俺はむせび泣いた。
どの位、そうしていたのだろうか。
俺はひとしきり泣きわめくと、もう泣くことはなかった。
母が死んだのに、一晩中泣けない自分が、酷く薄情なように思えた。
その日が、家で母と過ごす最後の日だった。
俺は母の隣に、布団をひき、横になった。
そのまま眼を閉じた。
ビデオは流し続けていた。
テレビから流れる音声と、ビデオの微かなモーター音。
それ以外は何も聞こえない。
俺は耳をすませた。
ひょっとしたら、母の寝息が聞こえるかもしれない、と、思いながら。