飲みかけの、コップ | 日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。

飲みかけの、コップ

 俺は、必要のない存在なのか。
 
 この世に、存在しない。
 
 妻の扱いは、それだった。
 
 それでも、食事だけは出された。
 
 会話など、ない。
 
 俺は、沈黙に耐えながら食事を終えると、汚れた食器をシンクに置いた。
 
 食器を洗う前に、風呂の掃除があった。
 
 娘を風呂に入れなくてはならないのだ。
 
 風呂を洗い終えて、布団もひく。
 
 皿を洗いに、台所に戻ると妻が食器を洗っていた。
 
 ちょっと、驚いた。
 
 飯の後、食器を洗うのはいつも俺の仕事だったからだ。
 
 しかし、妻が台所を離れた後、シンクを見て俺は少なからず落胆した。
 
 俺の使った食器だけ、そのまま残されていた。
 
 

 俺は、存在しないのか。
 

 それとも、俺の使った食器など汚くて、触りたくもないということなのか。
 
 妻は娘と楽しそうに何か話している。
 
 そして、娘は家の中を動き回った。
 
 そのとき、妻が声を上げた。
 
 「トイレに入らないで。床におしっこが垂れていて汚いから」
 
 俺は娘の様子を見に行った。
 
 妻の声が俺の耳に届く。
 
 おしっこが汚いと、同じことを何度も言っている。
 
 それが何を意味するのか、すぐに理解した。
 
 娘に言っているのではなく、俺に言っているのだ。
 
 床に小便が落ちている。
 
 俺がやったと妻は言っているのだった。
 
 泣きたいような、情けないような、なんともいえない気分のまま、俺は雑巾を握り締めトイレの床を拭いた。
 
 

 妻の、この執拗さはいったい何なのだろう。 
 
 床を拭きながら、しばし考えていた。
 
 そして、ある結論に達した。
 
 別れようという言葉を、俺から言わせたいのだと。
 
 
 別れを先に言い出した方が、どれだけ不利になるのか。
 
 ふとそんなことを思ったが、実際のところはわからない。
 
 あんたと居たくないから。
 
 そう言っても、妻はこの家に居続けて四六時中、俺に文句を言っている。
 
 そして、俺を追い込んで、その言葉を引き出したい。
 
 風呂から上がり、娘に飲み物を与えた。
 
 

 酒が飲みたかった。
 

 俺は娘と同じものを飲んで、耐えた。
 
 コップを二人分洗っているとき、シンクにある妻の飲みかけのコップに目が行く。
 
 妻の吐いた、憎憎しげな言葉が蘇ってきた。
 
 

 俺は二人分のコップを洗い終えると、飲みかけのコップをそのままにして、娘と一緒に寝室へ向かった。