短編小説 「夢」 第3話 | 日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。

短編小説 「夢」 第3話

昨晩の悪夢が頭から離れなかった。
私は妻に話しかけることで、それを頭から追い払おうとしていた。

「事故に遭う前に話していた、旅行の件だが」
「もうすこし、落ち着いてからにしましょう」

妻が微笑みながら、言った。
右手にはワイングラスが握られている。
二人で酒を飲むことも、以前はなかった。
私が帰宅すると、妻はすでに床に就いていることが多かったのだ。
妻を見つめた。
その瞳は、少しだけ碧く、深い静寂をたたえていた。
やましいものが、隠されていないことは見ていてわかった。
ただの夢なのだ。
そう心の中で呟いて、自嘲した。
妻の左手が、耳朶に触れた。
私は、その耳朶で揺れているものを見てはっとした。

「それは」
「あなたに、はじめてもらったプレゼントでしょ。忘れたの」
「いや、、、」

言って、私は口篭った。
忘れるはずはなかった。
小さなシルバーのピアス。
プロポーズのときに、当時の妻に送ったものだ。
ただ、それがここにあるはずはない。
旅先で紛失したはずだった。
なんで、無くしちゃったの。
なにげなく言った一言が、妻をひどく傷つけてしまった。
今思えば、それが崩壊の始まりだったのかもしれない。

あなたに、はじめてもらったプレゼント。

もう一度、妻が微笑みながら言った。




寝室で、妻と一緒に天井を見つめていた。

「あれ、鬼に見えないか」
「鬼なんていないわ、だいたい鬼はどこに住んでいるのよ」
「それは、地獄だろ、多分」
「地獄だって、ありはしないわ。天国だって」
「それなら、人は死んでどこに行くんだよ」
「死んでみなきゃ、わかるわけがないでしょ」
「それは、言えてる」

ベットの中で、妻を強く抱きしめた。
妻を失うかもしれないという、漠然とした恐怖が全身を震わせた。
微かに吐息を漏らし、妻は背中に腕をまわした。




夢を観ていた。

誰かが、病院のベットに横たわっていた。
頭と顔半分を覆うように、包帯が巻かれている。
喉に、太い管が刺さっていて酸素を送ってるようだ。
体のいたるところから、管が出ている。
脈拍や、心電図をモニターする機器から、定期的に電子音が鳴っていた。
家族と親戚なのだろうか、5、6人がベッドを囲むようにして集まっていた。
人を掻き分け、病人の顔を認めた。

あ、あ。

思わず、震えた声が漏れていた。
そこに横たわっていたのは、私だった。
医師がやってきて、こう言った。
血圧も下がり、危険な状態です。
今夜、もつか、微妙なところだと思います。
声をかけてやってください。
言葉を返せなくても、言っていることはわかるかもしれません。
妻を捜した。
ここにはいない。
病室を出て、院内を探し回った。
待合室のようなところに、妻はいた。
下を向いて、嗚咽を漏らしている。
瞼は涙で腫れ、握り締めたハンカチが濡れていた。
私は、妻の名を呼んだ。
何度呼んでも、その声は妻には届かないようだった。

これは夢なのだ。
悪い夢に違いない。
もう一度、妻の名を呼んだ。
妻が顔を上げ、私を見つめてきた。
そう思えただけで、私を通り越して、病室へ向かって歩き始めた。
私も、妻の後に続いた。

あなた。
あなた。

妻が、ベットに横たわる私に呼びかけている。

聞こえているよ。
私は叫んでいた。

病院から退院し、妻と過ごしたあの日々の生活は、いったいなんだったのだ。
死ぬ前に見させられる、走馬灯のようなものなのか。
心の中に描いていた、夢を見せられていただけなのか。


私は、泣いていた。
そして、これから死ぬことを確信した。
妻の顔を見つめた。
視界に、白い靄がかかったようになった。
最後に妻の名前を呼んだ。
声になっていただろうか。
電子音が、長い尾を引いて鳴り響いていた。
結局のところ、妻が言ったように天国も地獄ないようだった。
それが今、はっきりとわかる。
死ぬ前に見させられた、妻との日々の生活が、天国だったと言えなくもない。


いくら待っても、天使も三途の川も、目の前に現れなかった。
白い靄が、視界の一点に収束し、消えた。

暗闇。

何も聞こえない。何も感じない。

無の世界。



その時、私はこの世から消えてなくなった。





第四話 エピローグ へ続く