ガットハロのブログ’混石’ -29ページ目

Selling Jesus

 手放して以来テレビをろくに見ない。


 積極的に見ないようにしている訳ではないのだが、一度テレビを見ないことに慣れてしまうと今度はただ見続けることはおろか、余所の家でつけっぱなしのテレビにすら興味が向かなくなっている自分に茫然となるほどで、つまり私はバラエティ番組等における情報収集がかなり少ない人間なのですよ。


 と、たんまりと言い訳した上でスピリチュアルである。アラ古い話題ですことオホホ、という向きもあろうが、そこはそれ、「アドレス消したあの人からのメール」くらいの生ぬるい感じでお付き合い願いたい。嫌な感じだな。


 エハラーやらオーラやらで一世を風靡したスピリチュアルであるが、「オーラの泉」なる番組は私もちらと見たことはある。かの番組は終了しているらしいが、最近でもまだ本屋の平台でスピリチュアル関連の書籍が積まれたりしているので、熱狂が去ったのちも真摯な信奉者とやんわりとした支持者によってある程度人々の生活に浸透しているのであろうと思われる。


 で、以下は大して調べたわけでもなくテレビをちょろっと見てあちこちの本をひと眺めした上で想像するので眉につばをつけた上に濃いめのサングラスでもかけて読み進めていただきたい。なんだか毎回こんな言い訳してるな。知ってるよ。君がイイカゲンな奴だって知ってるよ。


 このスピリチュアルという思想、または存在だが、お寺さんやお社の方では何かと面白くないところもあったのではないだろうか。仏門神職の方をつかまえてそのような俗な感想を持つと考えるのは失礼にあたるかも知れないのでお寺の檀家さんや家に神棚を持つ方、でもよい。


 気になるのは万物に神が宿るという思想や輪廻転生その他死生観に及ぶ多数の宗教を広く浅く網羅した事柄に対し「スピリチュアル(霊性)によって説明できる」という何かの法則のような扱いをしている点だ(※)。


勝手に別の名前つけて余所さんとまとめんなや


 と憤る人がいるんではないかなあと思ったのだ。とりあえず私はそんなわだかまりを感じながらスピリチュアルという単語を聞いている。


 見てきたように適当なことを言うが、遠い過去には自分の国で祀っていた土地神様を守るために戦争まで起こした人々や、仏様、神様の教えを理解するために文字通り身を削って考え抜いたような人々がいたのである。更に現代では自然科学に道を譲ったとはいえ、一時は最先端の学問であったからこそ各宗派が現存していることを考えるに、一部とは言え各宗派の教えをそんなにやすやすとひとまとめにしてしまうことは何かこう、よくないことのような気がする訳である。


 などという半可通丸出しのつまらぬ疑念も100年くらい後にスピリチュアルが今と同程度にメジャーな分野で繁栄していれば全く理解されない気がする…とか逃げ腰になったところでころっと話は変わる。とある蔑称のことである。


○○信者


 この「信者」は、宗教がらみではない。何かに熱中している人を指して言う場合の呼び名である。Apple社のマッキントッシュにおける「マック信者」やプレステ含むソニー製品における「ソニー信者」等、メーカー名や製品名の後につけるだけであら不思議、まあアナタ必死ねえ、という蔑みをわんわりと込めた蔑称になるのだ。


 のだ、とまるで新規の流行語でも紹介するかのように得々として書いてしまったが、多分ネット上のなにかを発祥とするこの蔑称、今や定着しきった挙句、自らの趣味を表明する際のちょっとしたジョーク、つまりは良い意味に使う人すらいたりして、結構知られた単語ではないだろうか。


 しかし、信者。いまだ聞いたとたんに身構えてしまう印象の単語である。ただの偏見とわかってはいても、ロンドンとパリを同時に睨みながら「あなたが幸せの祈らされてください」とか言い出すおばはんが思い浮かぶ。いや、別におっちゃんでもいいけども。


 これまた勝手な想像だが、我々がかの俗語からイメージする「信者」の姿は多分、映画やドラマで見る、どぎつく色付けを施された「狂信者」である。ところで使っていいのかこの単語。


 日本で普通に生活していると、ある宗教における「敬虔な信者」というものに出会う機会は少ない。これで語弊があるなら、敬虔な信者は出会ったとしてもキャラが弱くて目に入らない、と言ってもよい。厳格な菜食主義者でも一日三度のお祈りを欠かさない人でも、これ見よがしでないため無信教の人とさして変わらないのだ。少なくとも私の経験上は。


 何故に信者と聞いて「敬虔な信者」より「狂信者」が先にイメージされるか。そりゃもう、面白いからだ。自分に直接関わらない限りは。けなし言葉としてもいい感じにアクが強くて使える。面白いよね信者。笑えるよ信者。


 まあ真面目な信徒諸氏にはたまったものではないが、市民レベルですら色々な蔑称にうるさいわが国でそれが許されるのも、国内における敬虔な信者の絶対数が少ないか、敬虔な信者にはそんな俗語に目くじらを立てる人間が少ないか、そんな事情によるのではないか。そして目立った苦情がないまま宗教に疎い我々による「信者」への偏見は維持され続けるのではないだろうか。


 偏見と共にこれからも使われるであろう「信者」という俗語が、宗教への関心だけでなく、我々の信仰心そのものや、森羅万象に対する畏敬の念の薄さまで物語っているような気もするのである。


 かくして山の上で哲人はのたまう。


「かみはしんだ」




※)現在「スピリチュアル」から喚起されるイメージにニューエイジ思想の影響が大で、とかその辺に首を突っ込むとエラいことになりそうなので、知らぬふりで生きてゆきますつーか何の話?知りまてーん。