Bad Habit | ガットハロのブログ’混石’

Bad Habit

 アメリカあたりではファックだのシットだのそういった単語を連発する音楽を未成年者に有害なものとして注意する旨の指定を行っている。白黒で「Parental Advisory」とか書いてるあのラベルである。意訳すると「おやごさんに、ヨロシク!」みたいな感じか。うすた京助風味な警告ではある。勝手に味付けすんなよ。


 日本で発表される楽曲、または輸入されるCDにおいてはそのへんの具体的な規制はまだ無いらしい。そのかわりに真面目な方面でやや刺激的な表現を行う楽曲については、楽曲に劣らず真面目な方々からの批難がちゃんとあったりする。


 具体的には森山直太郎の'生きてることが辛いなら'も賛否両論だったよね、とか。あちらは主題が救済を目指している曲だろうから汚い英単語と一緒にしてはいけないかもしれないが。


 ここではその是非を問う訳ではない。その代わり、批難の対象となることが多く、善なる心で前向きな思想を推した楽曲群にメジャーグラウンドの座を奪われて久しい(と思われる)この「有害な」楽曲がある理由について、自らの音楽嗜好を擁護する意味も含め、語ってしまうのである。


 問題視されるのは何に対していかなる害意を示した場合なのか。その例外はあるのか。いやいやどんな時でも悪口なんて言っちゃだめだよ、と言われてしまうと困ってしまうが、事実はそうでもない。かなり辛辣な表現で貶してもよいと許された物があるのだ。


為政者及び拝金主義


 色々とはしょって言ってしまおう。Rage Against The MachineやNirvana、その他ロッカーが楽曲、発言に濃厚な害意を込めながら世代を越えたヒーローたり得るのは、この2つを基本的な敵対者としていることが多いからだ。これを反体制と呼ぶ、そんな時代もあったねと、今じゃ話せる日が来たわ。


 レイジの'People of the Sun'を聴き、残されたカートの語録を見た人々は「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫ぶのだ。いけ好かない政治家や汚い金儲けをするやつらに一発カマしてくれてありがとう、と。


 これは、多数の強い者どもへ弱い者たちの中から現れた少数の英雄が戦いを挑む、という構図が(事実がどうかは別として)見えやすいからである。強いものの定義として、政治とカネは(事実がどうかは別として)とてもわかりやすく、意識を共有しやすいということでもある。ところで金を「カネ」と表記してやんわり差別化する手法もやってみると結構あざといな。


 さて、実際は政治なんぞに触れずとも、権力もカネの心配も各個人を圧迫する程度には各所に分散している。例えば仮に仕事熱心でいらっしゃる上司に私のだらけた勤務態度が睨まれたとしたら、それだけで私の生活は色々と、そしてえらいこと辛いものになったりする。いや、私の上司がどうとかいう話ではない。ちがうんです主任。物の例えです、ええ。


 この場合だと悪いのは10対0で私なのだが、かと言って不満がキレイに消え去るほど私も出来た人間ではない。だからモノの例えですってば課長。


 そんな時には害意のある音楽が、なんと薬になるのだ。だってその害意は私にではなく、私が憎いと思う事柄や人に向けられているのだから。勝手な思い込みだけれども。そして何だか、スカッとする。これは喫煙に並ぶ私の悪癖だ。悪いか。悪いよ。てやんでえ。


 とは言えあらゆる悪癖は、無くせばそのまま世の中が良くなるという訳でもない。悪癖を持つことによって他所への不満が自分で押さえられるというなら有用だし、害にしかならないとしても需要そのものを人為的になくすことだって無理だ。


 私はここ数年それほど酒を飲みたいと思わないが、禁じられると困る人はずいぶんいるのではないだろうか。世界中の車が時速30キロでしか走れなくなったら、私はある意味平気だし交通事故は間違いなく減るが、仕事上の理由以外でイヤだ、という人も多いはずだ。私もあえてこの2つをキツく取り締まれと叫ぶ度胸はない。数ある問題の解決となる保証がある訳でなし。


 害意のある音楽に限らず飲酒や安全な(法定とは限らない)速度をオーバーした運転は、悪癖としてどれも犯罪の原因とあげつらう事が可能であり、常に無視できない数の批判者と支持者が残る。


 これは論理のすり替えだろうか。そんな事はないと思う。その行為で救われている人も利用して罪を犯す人もいるが、その全員が行為自体を悪、または不必要と認めたがらない点では同じことだ。


 それでは、その他悪癖と並ぶお決まりの言い訳を。


「悪いのは犯罪者であって、有害な音楽ではない。苛立たしい生活に耐えるため有害な音楽を必要とする人間もいる」


 や、だから私はこの会社で毎日幸せですとも、社長。