Here To Stay | ガットハロのブログ’混石’

Here To Stay

長さ1メートル弱の棒。ごく普通の材質でごく普通の長さをもつこの棒きれはごく普通のお店で買うことができました。


ただひとつ違っていたのは…棒の先には3.5キログラムの鉄塊がついていたのです!

 中村正の声をイメージして読んでいただきたい上記のデンジャーな鈍器は、現在私が仕事で日常的に使用するハンマーである。これは便利だ。木杭でも鉄杭でも何でも打てる。簡易であればアスファルトも固められる。邪魔する奴がいれば…いや、やめておこう。


 以前にも 似たようなブツ(ドンツキとか)について書いたことがあるが、上記のごっついハンマーを含め土木現場でえっちら働く私には、少年時代の私であれば放っておかない数々のスプラッタームービー風味な道具を扱う機会が多い。


ガスバーナー(カプセル型ボンベ)
ハンマードリル
削岩機
チェーンソー


 特にチェーンソーを初めて操り自分の胴回りよりやや太い木を切り倒した時などは、何だか知らないが「いける!」と思ったものだ。行くな行くな。


 これらおっかない道具を初めて扱った時には人命にかかわる恐るべき破壊力に震え上がったものだが、それとともに感じていたのは「あ、俺は今、何か特別」という気分だ。


 さっきから全体的にとても危なっかしいことを言っている気がするがそういったアレではないのでご安心頂きたい。自分でそんなこと言うヤツこそ危なっかしいがそんな話ではなく、本題は「特別な気分」についてだ。


 危険でワクワクな道具を操って日々の作業を行う私ではあるが、そんな仕事をしてそろそろ10年にもなろうかという現在ではこれらの道具を扱うことに対して特段、うきうきしてはいない。強いて言えば相変わらずおっかない道具だなあ、くらいは思うが、それだけだ。


 何が言いたいかというと、当初感じた「特別な気分」がもう感じられないという事が言いたいのだ。今や私は車のエンジンでもかけるように削岩機をスタートさせ、煙草に火でもつけるようにガスバーナーに点火するわけだ。そこに「俺は特別である」という気分は、存在しない。


 当然と言えば当然である。いつまでもそんなうわついた気分で仕事をしていた日には迷惑なお祭り野郎の烙印を押されてしまう。私なら押す。焼ゴテでじゅうっと押す。熱ちっ。


 で、流れとしてはやや強引だが、いつの頃からかギターを持っていることの特別感も無くなった。


 確かギターを始めたばっかりの頃は、ギターを抱え、壁に貼ってあるhideのポスターやビデオで見るロックスターのポーズを鏡の前で真似して「いける!」とか思ったものだ。どこでも行け。そして帰ってくるな。


 しかるに、今ではギターがただの道具になっている感じがするのである。抱えた自分の立ち姿はもちろん、どんな音が出る出ないまで何もかも、勝手知ったる我がギター。目新しさの欠片もないぜブラザー。たまには怪鳥音でも出してみないか。出ないけど。要らんけど。


 この感覚を当初は「やっとギターが身に付いたってことかな」とか若干誇らしく勘違ったものだが、同時に当初の熱狂が去った事に気付いてちょっと寂しい思いもした。


 まあ当たり前である。いつまでも音も出さんと鏡の前でギターを抱えて自己愛全開な行為にふけるような奴は、自分の姿に見惚れて池に落っこちてお花にでもなってしまうべきだ。私なら恵庭市恵み野中央公園の池に突き落とす。鯉のエサになれ。ちょ、なぜ私を押すか。やめて。落ちるって。


 池に落ちた人は忘れるものとして、ギターを抱えた自分に感じる特別感は消え去った。それはギターを演奏する事についても同様だ。ならば、その後はギターとどのように付き合うべきか。


 もちろん、何かを為せばよい。ただの道具としてギターを操って。ただの手段としての演奏で。もとより楽器とはそういうもののはずである。人に会うたび「俺、ギター弾いてるから」と鼻の穴をふくらませながら言うための物体ではなかったはずだ。ほっとけ。


 それで、私はどうしているか。


 必要に迫られた場合以外、自分がギターを弾く人間であるとは誰にも言わなくなった。必要に迫られた場合とはどんな場合か。楽器屋で機材を買う時。(あまり表明の機会はないが)ライブの申し込みをする時。後は…ない。


 よってギターが特別で無くなった私の「為した」行動により、私がギター弾きであることを知る人はわずかになったのであった。他に特段の何かを「為す」こともないままに。


 「為す」ことのベクトルが違うだろがこのチキン野郎。