基本情報
神社名:雷神社
御祭神:火雷神
社格等:村社
鎮座地:神奈川県横須賀市追浜本町1-9
最寄駅:追浜駅
駐車場:なし
御朱印受付時間:9時00分~17時00分
公式サイト:https://kaminarijinja.com/
御由緒
創建の詳細は定かではありませんが、朱雀天皇の御宇承平元年(932)の勧請と伝えられ、鹽濱(字苗割り・築島とも言う)に鎮座していました。(現在の追浜町三丁目みずほ銀行裏になります)
永禄二年(1559)築島に落雷があり、その場にお籠りしていた十二名の乙女たちは柏槇の大木が身代わりとなって一命を取り留めると云う言い伝えがあります。江戸時代は奥の院と呼ばれ、昭和三十五年ごろまでは元宮の社殿が建っていました。現在は御神木のみが祀られています。
天正九年(1581)時の領主朝倉能登守が御朱印を賜り現在の地(追浜本町一丁目)に遷座し、宝永四年(1707)九月九日酒井雅楽守が武運長久・郷内災難除けを祈願して社殿の再建を行っています。また、寛政十一年(1799)七月十六と二十二日に郷村を挙げて雨乞いの祈祷が行われ、ご神威が得られたと記録にあります。
御祭神は火雷神之命または火雷之神との御名を称え、火の神様にお鎮づまり願い、お祀りしております。炎の神様で御座いますから、お姿を火雷天神菅原道真公のお姿と信じられています。また、落雷は天の怒りであると信じられ、祈願するものは心して崇拝しないと天神の怒りに触れるともいわれています。
御神得は、災難除け・雨乞い・身代わり守護・交通災害除け・厄除け開運・海上安全・五穀豊穣・学業成就・合格祈願・武運長久・必勝・心願成就・家内安全・商売繁盛等々で、人の生業にかかわる禍から人々を守って戴けるありがたい神様であらせられます。
雷神社の読み方は、本来は「いかづちじんじゃ」と発音されるのが御祭神に相応しい発音ですが、地元の氏子崇敬者の方々からは「いかづち」と言わずに「かみなりじんじゃ」と親しみを持って呼ばれます。また、振り仮名など読み方を指定された資料もないままに、いつの頃からか「かみなりじんじゃ」と申し上げるようにもなっています。古くは「雷電社」「雷電大明神」と記録にみられ、「雷神宮」の扁額が社殿内に掲げられていたと伝わっています。
現在の御社殿、昭和三十三年(1958)三月浄財募金によって竣工いたしました。
浜空神社について
昭和十一年十一月富岡(現富岡公園内)に横浜航空隊が開設され、飛行艇体の守護神として昭和十三年『鳥船神社』が創建されました。戦後に至りその功績と戦没者の慰霊の誠を捧げむと、昭和五十六年六月『鳥船神社』跡地に『浜空神社』として新たに戦没者並びに戦後物故者二千有余柱の英霊をお祀りされました。
殊に、昭和十七年八月ソロモン海戦最前線のツラギに進攻せし三百三十八名の飛行艇隊員は、壮絶なる玉砕を遂げるにあたり、ここに合わせて御魂が合祀されております。
戦後六十三年の歳を重ねるに、世話人の高齢化により維持困難ということゝなり、追浜航空隊甲飛会のご尽力により平成二十年六月ご社殿を此の地に遷座し、追浜航空隊戦没者並びに物故者の英霊ともども永遠にお祀りいたす事となりました。
因みに、当時の飛行艇は、川西H8K2海軍二式飛行艇(詫間航空隊所属機が鹿屋自衛隊航空資料館に実物が展示されています)及び川西H6K5海軍九七飛行艇が主力機となっていたそうです。
頒布のリーフレットより
御朱印
初穂料::各500円
境内案内
境内左のスペースには境内社と慰霊碑。おそらく浜空神社遷座と同時期に建立されたものだろう。
慰霊碑の隣には浜空神社。当社が遷座された後も富岡公園内には、かつて横浜飛行隊であった様子を伝える碑がある。
少し高い位置に境内社。見たところ通ずる道がなく、参拝できなかった。
鳥居をくぐると大石段。傾斜が急かつ段数が多いため足の不自由な方のために、こちらにも賽銭箱が設けられている。
階段を上りきると本殿。御祭神である炎雷神・菅原道真公を思わせるきれいな朱色をしている。
参拝を終えて
他社ではなかなか聞くことのない由緒をもつ当社。その由緒は紐解いていけばいくほど面白くなっていき、菅原道真公との関係性があらわになる点が非常に興味深い。それゆえ、幅広い御神得があり、地域からの崇敬が篤いことも頷ける。近年になって遷座された浜空神社からは、戦没者に哀悼を捧げよう、戦争当時のことを後世に語り継いでいこうという気持ちが窺える。最近では、日本がアメリカと戦争を行ったことや原爆を落とされ敗戦したことを知る若者が減ってきているようで大変残念である。
地図