日枝神社
の御朱印








鳥居⛩️
日枝神社本殿は、
喜多院山門の前方に鎮座する⛩️
山王一実神道の関係から
喜多院の草創時代から境内に祀られ、
近江日枝神社を勧請した⛩️

本殿は、
三間社流れ造り、銅版葺、朱漆塗り⛩️

室町末期から江戸初期の朱塗りの
華やかな様式が残る⛩️

神輿形厨子に安置される僧形の木像は、
大山咋神を表しています⛩️
なお、現在の赤坂日枝神社は、
文明10年(1478)に
太田道灌が江戸の地に城を築くに当たって
ここから江戸城内紅葉山に
分祀したことにはじまります⛩️








社号標
天台宗川越大師喜多院は、
仙芳仙人の故事によると
奈良時代にまでさかのぼる。

伝えによると仙波辺の漫々たる海水を
法力により除き、
そこに尊像を安置したといいますが、
平安時代、淳和天皇の勅により、
天長7年(830)慈覚大師円仁により
創建された勅願所であって、
本尊阿弥陀如来をはじめ
不動明王、毘沙門天等を祀り、
無量寿寺と名づけました⛩️

その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、
永仁4年(1296)伏見天皇が
尊海僧正に再興せしめられたとき、
慈恵大師(元三大師)をお祀りし
官田50石を寄せられ
関東天台の中心となりました⛩️

正安3年(1301)後伏見天皇が
東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、
後奈良天皇は「星野山-現在の山号」
の勅額を下しました⛩️

更に天文6年(1537)北条氏綱、
上杉朝定の兵火で炎上しました⛩️

慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は
第27世の法灯を継ぎますが、
慶長16年(1611)11月徳川家康公が
川越を訪れたとき親しく接見しています⛩️

そして天海の意見により
寺領4万8000坪及び500石を下し、
酒井備後守忠利に工事を命じ、
仏蔵院北院を喜多院と改め、
又4代徳川家綱公のとき東照宮に
200石を下すなど寺勢をふるいました⛩️

寛永15年(1638)1月の川越大火で
現存の山門(寛永9年建立)を除き
堂宇はすべて焼失しました😔

そこで3代将軍徳川家光公は
堀田加賀守正盛に命じて
すぐに復興にかかり、
江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、
客殿、書院等に当てました🧐
家光誕生の間、
春日局化粧の間があるのはその為☝️








社殿








賽銭箱のとなりに
書き置きの御朱印ありました⛩️








由緒書
慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、
鐘楼門、東照宮、日枝神社などの
現存の建物を数年の間に相次いで再建し、
それが今日文化財として
大切に保存されています😌
尚、明治維新の神仏分離令からは
東照宮、日枝神社は
別管理となる⛩️