護國寺
の御朱印

唐松山護國寺唐松観音








参道入口
駐車場からこの橋を渡って行く
のですが、欄干が腐食して脆くなって
いるようなので、注意して渡りましょう🌉








一休さんがお出迎え🙋
『この橋渡るべからず』じゃない?








鳥居⛩️








九重の塔?








由来
一条天皇の正歴元年(990)、
平清水の郷民森山氏の妻が
戦死した夫の冥福を祈るため、
唐松山の霊窟に観音像を祀り
河岸に草庵を結んだ、
これを「江滸尼公庵」と言ったのが
寺のはじまりとされている🛕

馬見ケ崎川の上流に住む藤原藤太に、
京都一条殿の豊丸姫という美女が
清水観音のお告げによってはるばる訪れ、
奥州宝沢の里に辿りつき藤太の妻となる😄
その豊丸姫の念持仏の
弘法大師作一寸八分金無垢の聖観音像を、
藤太が永久元年(1113)
唐松山の霊窟に祀って、
その前に堂宇を建て拝殿とし、
衆人と共に崇敬していた🙏
これが唐松の始まりであると伝わる🛕

その後、人々の信仰を集めるようになり、
にわかに松宗庵と護国寺の二人が
別当と名乗り出て役所に訴訟を起こした😲

しかし、二人共その根拠がなかったので
その職を解かれ、
改めて裏山の山守頭を務めていた
石井奥太夫宗吉を別当職に任じた🧐

寛文元年(1661)三月、
時の山形城主松平下総守忠弘(清長)は
深く唐松に帰依し、
居城鬼門の守護仏として
鎮城護国の道場に定めて観音堂創建を計り、
郡奉行市川七郎右衛門、日向六郎兵衛、
竹下三郎太夫に命じて建設に当たった🪚

三人は京都清水の観音の舞台を模して、
総檜材懸崖造りの荘厳な
大悲閣を建立したのである🛕
 
その後、堀田家の再建(1706)、
水野家の大修理(1856)等、
代々の城主が修復に心を配って来たが、
昭和の代となり
御堂は荒廃甚だしくなったため
再建の話が持ち上がり、
信者からの浄財をもって、
昭和五十一年五月に
新観音堂の落成を見たのである🛕








🌳参道🌲








山形音頭碑








堂は京の清水寺を手本とし、
県内唯一の懸崖造りの建物で、
寛文元年(1661)、
山形城主・松平下総主忠弘が
唐松山護国寺」と命名し、
山形城の守護仏とした🛕








平安時代の正暦元年(990)、
平清水の住人・森山氏の妻が
戦死した夫の冥福を祈り、
唐松山の岩窟に観音像を祀り、
河岸に草庵を結んだのが始まりと伝わる🛕








また、昔、清水観音のお告げによって
はるばる羽州宝沢を訪れた京都の
豊丸姫が炭焼藤太という青年
と結ばれて夫婦となり、
その幸せな生活は観音菩薩のおかげだと
豊丸姫が京都から持参した念持仏を
唐松山の岩窟に安置して祀ったのが
始まりとも言われています。








御堂入口








階段をちょっと登る🚶








御堂は県内唯一の懸崖造りの建物で
寛文元年、山形城主・松平下総守忠弘が
唐松山護国寺と命名し、
山形城の守護仏とされた🛕








その後、山形市内の有志によって改築され
山形市街十景の一つとなっています🏞️
京都の豊丸姫の念持仏を
岩窟にお祀りしたとされる🛐








本堂








御本尊
聖観世音菩薩








御真言








フェンスにおみくじ🙏








桜咲いた頃の絵画🎨








駐車場に掲示してある
観光案内マップ🗾








日本一の芋煮会🥔








初代鍋太郎
駐車場には、
日本一の芋煮会フェスティバル
で使用されていた大鍋
「初代鍋太郎」が移設されています🫕








別当宅








別当宅にも御堂ありました🛕








別当宅にて御朱印拝受出来ます🙏








山形の人気お土産のひとつ








甘いものも美味いですよ😋