黒石寺
の御朱印








妙見山黒石寺
天平元年(729年)、
東北地方初の寺院として
行基が開いたとされる🛕

東光山薬師寺と称していたが、
延暦年間(782年 - 806年)に、
蝦夷征伐による兵火により焼失😲

その後大同2年(807年)に
坂上田村麻呂により再興され、
嘉承2年(849年)円仁(慈覚大師)が
中興して現在の寺号となったとされる🛕

もとは修験(山伏)の寺であり、
胆沢城鎮守の式内社である
石手堰神社の別当寺として、
盛時には48の伽藍があったと伝えられ、
一帯には多くの寺跡がある🛕

現在の本堂と庫裏は
明治17年(1884年)に再建🛕








新奥の細道








石碑群








蘇民祭案内板
毎年旧暦正月7日から翌早暁にかけて
繰り広げられる裸の男と炎のまつり
「黒石寺蘇民祭」が行われる🛕








狛犬








本堂/薬師堂
岩手県奥州市江刺の三十三観音とともに
奥州三十三観音の霊場として、
多くの信者を集める黒石寺🛕

その仏像群は、
貞観4年(862)の薬師如来坐像から始まり、
12世紀半ばの平泉で君臨した
藤原基衡が寄進したとされる
日光、月光菩薩像や十二神将立像、
四天王立像など貴重なものが多数所在🛕

特に薬師如来坐像は、
蝦夷の英雄・アテルイの死から還暦にあたる
60年後につくられたとされるなど、
古代東北の謎を解く鍵のひとつ
と数えられています🛕








薬師堂








木造薬師如来坐像
桂材の一木造り🌳
像高126cm、像底と背部から内刳を施し、
像内膝裏には貞観4年(862年)の
年紀を含む墨書銘が記されている。

これは、木彫の仏像の造像銘で年号を明記した
ものとしては、日本最古のものである。
貞観4年は、胆沢城が築かれた
延暦21年(802年)から60年目であること
が指摘されている。

像は目尻の吊り上った険しい表情を示す。
右肩部に表された渦文、
分厚く造形された両脚部、
膝頭から足首に向かって
絞り込むような衣文表現、
頭髪部に肉髻を明確に表さない
点などは平安初期彫刻の特色である。

面部、両肩などの造形に乾漆を
併用しているのもこの時代の特色である。
がっしりした正面観に対し
側面の造形が扁平であること、
左肩から腹前にかけての
衣文の荒々しい刻み方などに
地方的特色がうかがわれる。

本像は在銘遺品がきわめて少ない
平安初期彫刻の中にあって、
制作年代が明確な基準作として重要である。








黒石寺案内板








⚔刀⚔








釈迦観音堂








奥州三十三観音霊場