薬莱神社
(やくらい神社)
の御朱印








社号標/鳥居⛩️








参道








由緒書

社紋は三種あり
車前草紋(オオバコ)で
坂上田村麿勧請のしるし、
五七桐は大崎家が朝廷より
拝領の紋で尊信深いしるし、
竪引の紋は伊達家より社門と共に
いただいたものであります。

社門は正柱三本立の変形式で、
三ツ脚門・七ツ脚門と呼ばれています。

貞享元年(1684年)、
伊達家が深く信仰された
塩竈神社のお釜が
不思議にもカラカラになり、
いくら水を入れても
貯まらなくなってしまった。 

兇変の兆しと領内の
神官・僧侶・修験者が
加持祈祷を行ったが験がなかった。
そこで当社伝来の三輪流神楽
(宮城県重要無形文化財指定)
が藩の命を受け塩竈神社神前に於いて
七日間祈雨泰平の神楽を奉演し、
満願の時慈雨の恵を得た。
殿様は大変喜び、
その賞として何を望むかと問われたので、
大手門のような立派な門が欲しいと答えた。 
殿様は大変困り、
番所のような門では
具合が悪いから柱を一本抜いたものと
竪引両の紋をつけることでどうだ仰せられ、
有り難く頂戴したものです。








手水舎🚰








🐶狛犬🐶








拝殿

天平九年(737年)
鎮守府将軍大野東人が軍事輸送の為に
色麻柵より出羽国に至る
通称「玉野道路」を開いた時、
悪疫が流行し多くの兵士や人夫が斃れたので、
将軍は薬莱山上に医薬の守護神
大己貴神』『少彦名神』を祀って
病気の鎮伏と工事の完成を祈願し
無事工事を終えたと伝えられ、
これが創建となっている。

やがて延暦二十三年(804年)
征夷大将軍坂上田村麿が東征の折、
薬莱山上に日吉二十一社の内より
薬師三社を勧請し、
上野目大宮に大宮大明神(現在の里宮)、
本郷の地へ八王子一社を奉祀して
東国安泰万民康楽を祈りました。 

山号を「薬莱山」と称し
医薬の守護、病難退散、壽福招幸の守り神
として近郷一帯はもちろん
東北・関東地方より信仰されております。

鎌倉期貞和二年(1346年)
大崎家兼公がこの地を領するに
及んで深く尊信され、
その庇護を受け大崎鎮護の大神と
仰がれるに至りました。
その後伊達氏版図に入るや一転、
采邑所領の全てが没収され
社運は衰微し
その護持は困窮を極めたと言われます。
しかし、別当祀官は修験者となって
奉仕し守り続け、
明治維新後村内の神社を合祀し
現在を迎えております。








鐘楼








絵馬殿








神社上空には🐲








境内の八重桜🌸