白虎隊
十九士霊神
の印








飯盛山参拝記念
の印








⬆会津若松駅⬇








🏔飯盛山参道入口🏔

白虎隊十九士の墓、
各地で戦死した三十一士の墓や、
イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、
さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、
白虎隊引揚の洞門、
市天然記念物の太夫桜など、
多くの史跡名所が残っている。








飯盛山動く坂道

スロープコンベアを利用すれば
山上まで石段を登らず楽に登れる😁👍








白虎隊記念館
歩く歩道からの眺め👀








白虎隊殉難士各霊廟

慶応4年(1868)正月3日、
鳥羽伏見の敗戦によって
会津藩はこれまでの軍事的欠陥をさとり、
3月10日、改めて軍隊の編成替えをした。 
そこで誕生したのが、
中国の四方(東西南北)の武神の名のもとに、
玄武隊青龍隊朱雀隊白虎隊
の4隊を結成⚔
それぞれの隊は年齢によって編成され、
更に各隊は身分階級によって、
士中、寄合、足軽の
3隊に分けられ、白虎隊は総勢343名だった。
そのうち戸の口原十六橋に向かったのは、
白虎隊士中二番隊の37名でした。
そしてその中の17名は
無事に入城しましたが、
20名は飯盛山で自刃をし、
1人蘇生された飯沼少年を
除いた19士の墓🛐








飯盛山からの街並

戊辰戦争後、
会津藩は敵とされたために白虎隊の
遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ
埋葬の許可がされなかったとか😰
この場所で風雨に晒される少年たちの遺体は、
衣服遺留品は盗賊に盗られ、
動物に食べられ酷い状態だったようです。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、
村の吉田伊惣次と有志らと
夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、
今の墓前広場の一角に仮埋葬をした🙏
しかし、このことが西軍にわかり、
遺体は掘り起こされ
元のこの場所へ投げ捨てられ、
正信爺は伊惣次と共に処罰され、
その後許され出てきた時には
正信爺は縄のようにやつれていたとか😱 
白虎隊の埋葬の許可がおりたのは、
後の明治2年のことだったとか。

なんともいたましい話ですね😲








宇賀神堂
白虎隊十九士之霊像

五穀豊穣の神、宇賀神(白蛇)を祀っている。 
寛文年間(1661〜1672)、
松平正容が厳島神社の傍社として建設され、
現在は明治23年につくられた
白虎隊十九士の洋装の
霊像が祀られている。








さざえ堂
寛政八年(1796)建立








正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』
といい、飯盛一族の先祖である
飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚
によって建立され、
西国三十三観音菩薩を安置した
六角三層の観音堂🛕








宇賀神堂と厳島神社
天保年間に会津平野のかんがい用水として
猪苗代湖より通水した洞穴ですが、
戊辰戦争の折、 
白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため
飯盛山に向かう際、この洞穴をくぐりました。 
現在でも農業や工業用水に使われています。








さざえ堂

その形がさざえの殻に似ていることから
俗に『さざえ堂』と呼ばれ、
階段のない螺旋通路で上り下りができ、
上りの人と下りの人がすれ違うことなく
一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、
国の重要文化財に指定されています。 
仏像は明治の神仏分離令で撤去され、
今は皇朝二十四孝の絵顔【三匝堂】
が掲げられてあります。








大人も子供も不思議に感じるお堂🤔








厳島神社

『弁天様』と親しまれるこの神社が、
飯盛山の別名『弁天山』の由来にあたります。
飯盛山』という名も、このお堂建設に纏わる
神話が由来しております。 
永徳年間(1381〜1383)に正宗寺の別当として
『宗像神社』が建設された。
主神は市杵島姫命。
後に、明治の神仏分離令により
『厳島神社』と改称され、仁王門の仁王像は
撤去され盧舎那仏も阿弥陀寺へ移された。








白虎隊記念館
会津若松や飯盛山の資料館








唯一の生存者飯沼貞吉

飯盛山に引き上げた白虎隊20名の中で
ただ一人生き残ったのが飯沼貞吉でした。
貞吉は、生き残ってしまった自分を責めて、
この会津の地から離れ二度と
会津に戻ることはありませんでしたが、
戊辰戦争・白虎隊の自刃に至るまでの詳細を
貞吉が語ったことで、飯盛山で自刃された
白虎隊の物語が
世に知られることとなったのです。 
生前多くを語らなかった
と言われる貞吉ですが、
貞吉たっての希望で
戊辰戦争90年祭の昭和32年に
彼らが自刃した場所と
自刃を遂げた19名の墓の間に
髪の毛と爪(抜け歯)が納められました。 
尚、貞吉は後に貞雄と改名しているので墓石は
貞雄とされています。








会津若松駅
赤べこがお出迎え🐮
















鶴ヶ城🏯
(正式には若松城)

難攻不落の名城とうたわれた鶴ヶ城は、
戊辰の戦役で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月、
城は落ちなかった。
石垣だけを残して取り壊されたのは
明治7年のこと。
至徳元年(1384)葦名直盛がはじめて館を築き、
改修を経て天下の名城となった。 
たくさんの方々の寄付により
鶴ヶ城がよみがえった
のは昭和40年9月のこと🏯
平成23年春には幕末時代の瓦をまとった
日本で唯一の天守閣となりました。
平成27年4月、
天守閣再建50周年を記念にして、
展示室が全面リニューアルされた。








鶴ヶ城天守
想像以上に大きい😲








会津若松市のシンボルである鶴ヶ城は
室町時代の初め、今から約630年前の
至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として
造営したのが始まりとされています。
城といっても天守はなく、館程度だったとか。
その後、伊達政宗が城主となったあとは、
蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、
七層の天守を築きました。 
江戸時代に入り、会津で大地震が発生、
被害を受けた天守は大改修され、
現在と同じ五層の天守となる🏯
幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え
難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、
政府の命令により取り壊され、現在の天守は
昭和40年(1965)に再建された。
内部は博物館になっており、五層からは
会津若松市街地や
会津盆地、磐梯山が一望できる👀








⬆天守からの会津若松の街並⬇








⬆鶴ヶ城の公園内⬇

鶴ヶ城公園内には、
千利休の子・少庵が建てたと
言われる茶室もある。 
お客様がお茶を楽しめたり、
定期的に茶会が開かれたりしている。 
戊辰戦争後、
城下に移築され保存されていたが、
平成2年に元の場所である鶴ヶ城内へ
移築復元された。








河内屋
赤べこがお出迎え
蔵を改装した古民家風の店内で、
壁には四季によって替わる
只見線の風景写真などが
飾られ、奥会津の素朴さと自然の美しさが
垣間見れ癒されます。お土産売り場では、
奥会津ならではの食品をはじめ、
会津の民芸品や雑貨類を
種類豊富に取り揃えています。








福島市内








湯の街飯坂温泉








旧堀切邸

江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家。
県内最古の土蔵「十間蔵」や、主屋、井戸や
百姓溜まりなど、当時の生活ぶりを伝える
歴史的価値の高い建物です。
手湯・足湯も整備されており、
様々なイベントも開催されています。








鯖湖湯♨

鯖湖湯の名前の由来は、
西行法師がこの湯を訪れた際に、
「あかずして 別れし人のすむ里は 
左波子(さわこ)の見ゆる 山の彼方か」
と詠み、そこから「鯖湖の湯」という名が
定着したとも云われています
現在も飯坂温泉共同浴場の
シンボルとされている鯖湖湯は
地元の利用者の他にも雰囲気を求める
県外からの観光客も多く訪れています。

そして、めちゃくちゃ熱い😱
初めて入る方は「これぞ熱湯風呂」と
思いますよ😳
水でうすめられるように
ホースがありますが、
地元の方に断わってから
じゃないと怒られます(笑)
でも、地元の方も観光客には配慮してくださる
ので、常連さんに聞いて入れば大丈夫😁👍








飯坂温泉の街中を流れる川
この近くで毎年10月に祭りが行われるようです😄








いい電🚃
色合いがめちゃくちゃいいです🌸








松尾芭蕉
飯坂温泉駅前にいます🚶








いい電🚃福島駅にて








飯坂温泉発祥の地








温泉神社
飯坂温泉鯖湖湯のとなりに建っている
鯖湖神社境内には、
飯坂温泉発祥の地」の碑、
俳人正岡子規らが
飯坂を詠んだ句碑が建てられています。 
また、身体の癒したい所に
温泉をかけると良くなると伝えられている
泉仏 お湯かけ薬師如来
も祀られています。








飯坂温泉発祥の地の石碑








共同浴場♨

飯坂にある9つの共同浴場は、
いずれも熱いお湯で知られ、
古くから飯坂に住む人々の内風呂として
親しまれきました。
1200年以上の歴史があり、
シャワー完備で熱い湯、温い湯の
2槽をそろえた「波来湯」や、
元禄時代に松尾芭蕉が立ち寄ったとされる
鯖湖湯」をはじめ、
福島盆地を一望できる「大門の湯」、
地下に続く階段の先にある「切湯」、
住宅地にあり生活を支える
導専の湯」「十綱湯」など、
文化や暮らしを感じさせる
個性豊かな浴場が揃うことが、
今もなお飯坂の共同浴場が愛される理由
いつでも気軽に日帰りでも来れる
温泉の銭湯なので、
温活や美活でご利用のお客様にも好評だとか

温泉行きた〜い