涌谷神社
の御朱印


涌谷総鎮守

御祭神
赤心猛勇命(伊達安芸宗重)








砂利敷&石畳の参道
左手が手水舎    右手が社務所


御由緒
江戸時代初期、伊達安芸宗重公は
仙台藩一門、涌谷伊達(亘理)氏第四代の館主
として当地を治めていた。

二万三千石を領し、
治世20年文武を励み野谷地の開発に
力を尽くし産業の復興につとめた名君。 

その館主宗重公の徳を追慕し、
明治7年12月官許を得て、
宗重公の御霊を祀る神号を
「赤心猛雄命」と称し、
旧館址に神社を建立し、
その御霊を奉祀。 

宗重公は寛文事件(伊達家のお家騒動)の
中心人物で、仙台藩62万石の
安泰を期した大人物。 

寛文年中、藩主綱村公が幼少の為、
後見伊達兵部宗勝の独裁的権力の
支配下にあった。

悪人はびこる後見政治の打倒を
はかりましたが、寛文11年(1671年)3月27日、
大老酒井忠清屋敷の裁判において、
乱心した家老原田甲斐に斬殺さた、
享年57歳。 

延宝2年(1674年)3月27日、
藩主伊達綱基(のち綱村に改名)公の筆
「尽忠見龍院」を、
宗重公のお墓である廟の額とするよう
嫡子の宗元に贈り、父の忠節を賞した。 

大正9年(1920年)、旧物見台(旧涌谷城本丸跡)に
神明造の新社殿が竣工し、今日に至る。








拝殿

涌谷城は篦岳丘陵を背に、
北東に深い谷をかかえ、
前面は江合川の流れによって
守られる天険の要害🏯

平山城で東西109メートル、
南北327メートルの長方形をしています。 

中世大崎氏の支族、涌谷氏の居城で
現在の涌谷神社があるところが本丸でした🏯

北に空堀、南に物見の松があり、
二の丸の西部に腰曲輪が張り出し、
犬走りも残存。 

近世、天正19年(1591)に亘理重宗が入城し、
以後277年、仙台藩一門2万2600余石の
涌谷伊達氏の要害屋敷として知られ、
天主閣は無く、二の丸が削平拡張されて
邸宅風建築が並びました。 

伊達騒動で有名な伊達安芸宗重の跡取り、
宗元が日光廟修営奉行として出張中、
元禄2年9月に失火により全焼し、
復興に数年を要す。

江戸時代の末期には、
建築21棟、土蔵3棟となり堀をめぐらしていた。

上屋敷と呼ばれた出丸が
西方1キロメートル先にあり、
下郡沼の南端、寒神沼から引く深い内濠が
二の丸の裾をめぐり、
江合川は城の外濠の役目を果たしていた。

城東に妙見宮、見龍寺、竜渕寺が建築され、
涌谷大橋の東に大手門が設けられ
河岸に郷学月将館、内濠を渡ると中の門があり、
坂を登ると詰の門がありました。 

城下は江合川に沿って侍屋敷を割り出し
町屋敷は仙台道に沿う本町、新町と
穀船河岸につながる河原町の3町でした。

明治2年(1869)登米県庁が置かれ
権知事に鷲津宣光が来任、
明治5年、居館は全て取り壊され、
今は詰門附近の石垣と角櫓に
昔の名残りを留めるのみとなりました。








涌谷城

涌谷城(涌谷町立史料館)は昭和48年に完成。

春には桜が咲き誇り、
桜の名所として多くの方が訪れます🌸