米沢駅
山形新幹線も停まる山形県南部の玄関口🚄🚃








前田慶次ゆかりの里
としても有名で米沢駅周辺には多くのノボリ








米沢駅構内に、前田慶次のポスターもあります








上杉神社に向かって進むと参道途中に
天地人こと上杉景勝直江兼続
の銅像があります

何か語らってるような感じですね👬








上杉謙信公の像

多くの方が写真撮ってました








伝国の杜・米沢市上杉博物館

上杉景勝(右)と直江兼続(左)の前立て








上杉謙信前立て

【毘】【龍】の文字が闘将らしい😏








法泉寺(旧・禅林寺)

元禄3年(1690)に、
二代藩主定勝の三女亀姫の法名(法泉院殿)をとり、
禅林寺から法泉寺と寺名が変わる。

法泉寺にはこの亀姫の墓と共に、
定勝の四女で、吉良上野介義央の奥方となった
三姫(富子)の墓もある。

三姫の墓から白髪の髻が入った壺が見つかり、
三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ、
「忠臣蔵」の隠れた史跡として
最近注目されているようです。








由緒書

法泉寺は初め禅林寺という名前で、
1618年直江兼続が創建した🛕 

兼続は足利学校で学ばせていた
九山禅師を呼び寄せ、
寺内に米沢藩士の子弟を教育するための
学問所「禅林文庫」を開設。

藩学の基として、
後に上杉鷹山が創設した
興譲館へと受け継がれる。 

兼続が集めた禅林文庫の蔵書は、
今でも貴重な文化財として残っています🧐 

庭園は九山禅師が
京都天竜寺の名園をまねて造ったと伝えられ、
米沢三大名園のひとつになっています。 

現在の法泉寺は、道路を挟んで
南の寺院・墓地と北の文殊堂・庭園に
分かれていますが、元はこの南北を
隔てる道はありませんでした。

直江兼続が創建した当時は、
法泉寺は三の丸北西に位置しており、
掘立川に掛けられた橋を渡るとすぐに
法泉寺の門があったと伝えられています。








白子神社

白子神社は和同5年(712)の創建という🛕

由緒は、神のお告げによって
桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は
雪が降ったように白一色で、
やがてその蚕は繭を作った。

この不思議な現象により、
この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、
和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、
というものです。 

平安時代には、この地方を鎮めに来た
小野良春によって社殿が建替えられ、
鎮守の社となったと伝えられています。

神社に保存されている古い鬼瓦は、
この時建てられた社殿の鬼瓦とも言われている。
(市指定文化財)

米沢の鎮守の宮として、
長井氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏と
置賜地方を治めた歴代の領主から信仰され、
社殿の造営や社領の寄進など、
厚く保護されてきた。

それは、元禄六年に吉良義周
(きらよしちか=上杉綱憲の次男で
実の祖父吉良上野介義央の跡継ぎとなる)
が奉納した「白子大明神」の扁額や、
上杉鷹山が倹約を誓って納めた
「倹約誓詞」などでも、
深く信仰されていたことが知られます。

この扁額と誓詞は
市の文化財に指定されています。 

一方、白子神社の門前に「市」が始まり、
米沢の町・商店街が開かれたことも
知られています。

粡町(あらまち)に残る江戸時代の記録では、
粡町はむかし白子神社門前(元籠町のあたり)
に発生した町で、9月の祭礼には
「市」が立ち、綱引きの神事が行われ、
その神事は今の場所に移ってからも
続いていると記されています。

綱曳きの神事とは、
白子大明神に大しめ縄を寄進し、
古いしめ縄を用いて東西に別れ、
綱引きで米価を占うもので、
東が勝てば高値となり、
西が勝てば安値となるといいました。

また、立町も蚕霊宮の門前市から
興った町といわれており、
白子神社は米沢の鎮守、養蚕の神様、
町人町の神様として信仰され、
江戸時代の後期には、
各町々から豪華な山車や
大勢の囃子連が繰り出す祭りも行われた。

鷹山の倹約令で、華やかな祭りは
あまり行われなくなった米沢ですが、
時には町人町の活気・意気を
示す祭りもあったようです。 

現社殿は、大正6年の大火で類焼し、
同13年に再建されたもの。








東源寺

萬用山東源寺は、
上杉氏の家臣となった尾崎氏とともに
信州(長野県飯山市)から
米沢に移ってきた寺院で、
宗派は曹洞宗。

縁あって直江兼続の位牌も
祀っているようです。 

羅漢とは阿羅漢
(悟りを得て人々から尊敬をうける人)
の略で、五百羅漢とは釈迦の滅後に
経典をまとめた仏弟子500人を
指すともいわれています。

中国で五百羅漢の信仰が盛んとなり、
日本では禅宗の寺院で信仰が広まり、
五百羅漢像などが作られた。

東源寺の五百羅漢像は、江戸時代の末期、
天保の末ころから文久3年(1863)まで、
20年余りをかけ米沢で作られたもの。

同寺27世の宗岳和尚は、
天明・天保の凶作で苦しむ人々の生活を見て、
人々の心を救い豊作を祈願するため
五百羅漢像の製作を決意した。

資金集めに、置賜一円をまわって志を募り、
仏師遠藤亀次(米沢の仏師)に製作を依頼。

宗岳和尚の存命中には完成できず、
28世の祖岳和尚の時ようやく
五百体の羅漢像が出来上がる。 

五百羅漢像の内、十六羅漢像がやや大きく、
高さ約52センチで、
羅漢堂の正面に釈迦・文殊・普賢像
と一緒に並んでいる。

残りの羅漢像は高さ約30センチで、
羅漢堂の四方にぎっしりと配置されている。 

羅漢像は寄木造りの木像で、
眼球を中から入れ、
鉱物性の顔料で鮮やかな色に塗られています。

それぞれ、悟りを開く縁となった
筆・経文などを手に持ち、
金色の法輪が頭の後ろに付いています。 

羅漢像の右前には、
羅漢の名前と寄付に応じた人の名前が
記された木札があり、武士、僧侶、町人、
村々の農家など、様々な人の志で出来たこと
が知られます。

五百体の羅漢像は一人ひとり表情が異なり、
その中に必ず自分の身近な人の面影を
見つけることができる、といわれています。








国分寺薬師堂

山形市に鎮座しており、
山形県護国神社からほど近い場所です。








由緒書

国分寺の創建は天平13年(741)、
聖武天皇が仏教の力により国家安寧を導く為、
各国一宇づつ設けた寺院の1つで行基菩薩が
勅命により開山したと伝えられている。

国分寺は国府の近くに設けられる例が多く、
当時の出羽国の国府は秋田城(出羽柵)に
置かれていた事から当初は
現在の秋田市周辺に境内を構えていた
とも考えられますが、
記録上も遺跡なども
そのような形跡が見られていないとか。

延暦23年(804)に秋田城が停止された事から、
庄内地方に出羽国府が移ったと考えられ、
国分寺も随行したと思われますが、
その場所についても旧東田川郡渡前村、
旧飽海郡本楯村、旧最上郡豊里村など
諸説あり、酒田市の城輪柵跡が
出羽国府の有力地である事から
酒田、鶴岡付近とも考えられます。 

記録的には承和13年(846)に安慧が国分寺に
講師として派遣された事が記載され
平安時代には寺運が隆盛していた事が窺えます。

平安時代末期から鎌倉時代初期に
国府が山形市北方の府中に移った記録が
ある事から国分寺も府中周辺に移り、
東根市にある東根国分寺も
当初は護国山薬王院国分寺と
称していたと伝えられています。 

現在の別当寺院である柏山寺に
伝わる由緒によると、
鎮守府将軍大野東人が伽藍を造営し、
貞観年間(859〜877)に慈覚大師円仁が
天台宗の寺院として再興、
康平6年(1063)には源頼義が堂宇を再建、
平安時代末期には藤原秀衡が再興、
建久年間(1190〜1198)には
大江広元が堂宇の修築を行うなど
華々しい歴史を刻んでいます。 

山形城の初代城主斯波兼頼(最上家の祖)が
延文5年(1360)に再興したが、
その後は衰退し、天正2年(1574)に
最上義光が山形城の北東方向にあたる
現在地に境内を移し鬼門鎮護の寺院として
寺領320石を安堵して庇護します。

元和8年(1622)に最上義俊が御家騒動により
改易になると、その後は幕府が庇護し
最上家の寄進した同石の320石の朱印状が
発給され上野寛永寺の直寺となり、
寺運も隆盛し当地方の天台宗の触頭となり
末寺23ヵ寺を擁する大寺院となっています。 

明治時代初頭に発令された神仏分離令
により隣接する柏山寺の管理となり、
明治44年(1911)に火災により堂宇が
焼失すると旧宝幢寺の本堂を移築して
新たな薬師堂となっている。

毎年5月8日に行われる例祭「薬師まつり」
では全国各地から植木商人が集まり
「全国三大植木市」に数えられています。








霞城公園/山形城跡

霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、
約35.9haの面積を有する山形城跡を
整備した都市公園。 

延文元年(1356)に羽州探題として
山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が
築城したのが始まりと伝えられ、
現在の城郭は第11代城主最上義光(1546~1614)
が築いたものが原型とされています。

本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と
土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ
輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合戦
「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れて
見えなかったことから「霞ケ城」
とも呼ばれていた。

現在残っている二ノ丸の堀や
土塁・石垣は、最上家改易後、
元和八年(1622)に城主となった鳥居忠政により
整備されたと伝えられています。

昭和61年に国の史跡指定を受け、
平成18年には「日本100名城」に認定され、
現在は桜と観光の名所になっています。








米沢市、山形市の神社仏閣訪れて、
御朱印頂くこと叶わなかった分の写真です😄

山形県は名だたる武将の多い地域なので、
それに関わりのある神社仏閣も多いです。

また、訪れたいです😊
米沢牛食べたい😋🐂🐃🐄