上杉家墓所
の御朱印








上杉家廟所

廟所とは魂を祀る場所、建物の事。

墓所とはお墓のこと、墓石の事。

また、ここの地域一帯は
御廟という住所のようです。

この上杉家廟所は御廟一丁目だそうです。








観音様








上杉家廟所参道入口








上杉家歴代の各廟所








参道も綺麗に整備され、
杉林に覆われています🌲

奥のノボリは、と、の文字。








米沢藩主上杉家の墓所の位置図

明治9年(1876)に謙信公の御遺骸は
当地に遷座されました。

これに伴い、拝殿や石灯篭は撤去され、
参道も新たに作り替えられるなど
現在の景観になったようです。

杉林の中に整然と立ち並ぶ歴代藩主の廟屋は、
上杉家と米沢の歴史。

昭和59年(1984)には全国の大名家墓所としては
五番目に、国指定史跡として登録されました。








上杉謙信公の墓所

米澤藩上杉家の祖謙信公は、
越後守護代の長尾為景の二男として生まれ、
十九才で家督を継ぎ、二十三才の時、
関東管領の上杉憲政から
関東管領及び上杉姓を譲り受けました。

謙信公は尊王意識も高く、
朝廷及び足利幕府の信任も
厚いものがありましたが、
天正6年(1578)四十九才で急死しました。








上杉景勝公の墓所

上杉謙信公亡き後を継いだのは
上杉景勝公です。

景勝公は豊臣秀吉の信任を受けて
五大老の一人となる。

慶長3年(1598)秀吉の命で
会津120万石へ転封となったが、
徳川家康に敵対した
関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に
米澤30万石に減封された。








上杉鷹山公の墓所

寛文4年(1664)に四代藩主綱勝公が
世継ぎのないまま急死してしまい、
上杉家断絶の危機を迎えましたが、
綱勝公の奥方の父、保科正之公の尽力により
綱勝公の妹婿である吉良義央公の長子、
綱憲公が跡継ぎとなった。

その結果、15万石に減封されましたが
家名は存続となる。

上杉家は会津120万石の八分の一になり、
九代藩主重定公の時代には
藩財政は破綻寸前の状況だったそうです。

現在の米沢の礎、この窮乏の藩財政改革を
見事に成し遂げたのは
十代藩主上杉鷹山公です。

鷹山公は質素倹約、学問の奨励、
殖産興業に率先垂範で取り組み、
必死の覚悟で一生をかけて藩復興に当たった。

明治維新後、米澤藩上杉家は華族に列し、
伯爵位に叙された。

米澤上杉家の十七代現当主である
上杉邦憲氏は宇宙工学博士で
宇宙航空研究開発機構(JAXA)の
名誉教授だそうです🚀🛰🛸