熊野那智神社
の御朱印

御祭神
羽黒飛龍神 伊弉冉尊

相殿
黄泉事解男命 国常立尊
伊弉諾尊 天照皇大神








熊野那智神社の社号標

祭神は熊野夫須美神(くまのむすびのかみ)
をはじめ、6柱をお祀りしています。 

伝説によると養老3年(719年)
閖上の漁夫が海底から御神体を引き上げた際、
輝くご神体の光が止まる所が高舘山で
あったことから、そこに宮社を建て
羽黒大権現としてお祀りしました⛩️ 

その後、名取老女が熊野三社を勧請した
ことにより、那智の分霊を合祀して
熊野那智神社」と改称したとされています⛩️ 

神門の上の展望台からは
名取平野から閖上浜まで一望でき、
社殿の背後の谷には滝があり、
滝沢不動尊というお不動さまが祀られていて、
この立地や景観は紀州熊野の那智山に
類似していると言われています。 

社宝の「熊野那智神社 懸仏・銅鏡」は
鎌倉・室町時代のものといわれ、
国指定の有形文化財美術工芸となっています。








鐘楼

熊野那智神社の主祭神である伊弉冉尊と
相殿神の伊弉諾尊の二柱は、
天地万物の化生の力である
結び(産霊)の力を司る夫婦神である。

そのため、熊野那智神社は『結びの社
として様々な縁結びに御利益がある
神社だとして近年信仰を集めている。








拝殿

伝説によると、養老3年(719年)閖上浜の漁師が
海底から御神体を引き上げたところ、
その光の輝きの止まる所が
高舘山であったことから、
そこに社を建て羽黒飛龍神として祀ったという⛩️

一方「閖上」の地名の由来として、
貞観13年(871年)に
霊験あらたかな十一面観音像が
波に揺り上げられているのを漁師が見つけ、
それが現在高舘山の那智神社に
那智観音像として安置されている、
という話も伝わっている。 

その後、名取老女の熊野三神勧請にあたり、
那智の分霊を当社に合祀し
熊野那智神社と改称した⛩️ 

近世は伊達家の厚い崇敬を受けて、
社殿の造営や社地の寄進などを受けた。 

明治元年(1868年)の太政官布による
神仏分離令を受け、
社殿に奉納されていた御正体である懸仏などが
関係者によって密かに埋められたが、
明治31年(1898年)7月の拝殿移築の際
床下から再発見された。
このうち、懸仏・銅鏡41点が国の重要文化財、
懸仏・銅鏡114点が
宮城県指定有形文化財となっている。 

かつては御神体が揺り上がった場所である
閖上浜までの浜降り神事が行われ、
正月には「カラスゴ(牛王宝印)」を
氏子に配布していた。 

牛王宝印は平成24年(2012年)夏頃より社務所にて
参拝客に配布されるようになっている。

図柄は熊野速玉大社のものと同様。









御祭神
羽黒飛龍神(はぐろひりゅうのおおかみ)
熊野夫須美神(くまのむすびのかみ)
黄泉事解男命(よもつことさかおのみこと)
速玉神(はやたまのかみ)
家都御子神(けつみこのかみ)
大穴牟遅神(おおなむちのかみ) 
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

当初羽黒大権現のみをお祀りしていましたが、
その後、名取老女が熊野三社
勧請したことにより、那智の分霊を合祀して
熊野那智神社」と改称したといわれます。 

後世では伊達家の厚い崇敬を得て、
社殿の造営や社地の寄進などを受けました。

また紀州熊野那智大社のご神体は滝ですが、
名取熊野那智神社の社殿の背後の谷にも
小さな滝があり、「滝沢不動尊」という
お不動さまが祀られています。

この立地や景観から、
紀州熊野の那智山に類似していると
言われています。 

このほか社宝の
「熊野那智神社 懸仏・銅鏡」は
鎌倉・室町時代のものといわれ、
国指定の有形文化財美術工芸となっています。








拝殿を背にすると名取市街が見渡せ絶景です👀
熊野那智神社の起源には、

閖上(ゆりあげ)と深いつながりがある
伝説があります。 
養老3年(719年)、
漁師の治兵衛が漁をしていたところ、
海底から引き上げたご神体が光輝いており、
その光が指し示す先の高館山へ
羽黒権現としてお祀りしました。 
そしてご神体が「揺り上げられた」ことから、
この浜は「ゆりあげ」と呼ばれるようになり、
仙台藩4代藩主・伊達綱村によって
閖上」の字があてられました🧐











熊野神社
の御朱印

御祭神
速玉男尊(はやたまのおのみこと)
伊弉再尊(いざなみのみこと)
事解男尊(ことさかのおのみこと)
菊理姫神(くくりひめのかみ)

ほかに4柱をお祀りし、
東北地方屈指の熊野神社の一つとされています。

保安4年(1123年)、
紀州・熊野を模し勧請した名取熊野三社の一つ、
熊野新宮社として創建⛩️

以来、東北地方における熊野信仰の中心地として
隆盛を誇り、中世には名取熊野別当が
置かれ宗教的にも軍事的にも
大きな権力を持つに至ったという。 

伊達氏の時代においても、
永正11年(1514年)伊達稙宗が
神領の棟役段銭を免除したことを先例として、
晴宗、輝宗、政宗による免除が行われ、
以後、歴代仙台藩藩主の種々寄進、
奉納を受け伊達家と深い結びつきを持った。 

名取熊野三社の中でも
最も中心を成していたため、
後に熊野新宮社熊野本宮社熊野那智神社
合祀し熊野神社と改称。 

明治元年(1868年)3月の太政官布達
「神仏判然令」により神仏合祀が
禁じられたことで、
熊野神社所蔵の本地仏をはじめ、
法華経、一切経、大般若経、仏具等仏教色
のものはすべて文殊堂に移され、
その文殊堂も神社境内の南へ移動され、
真言宗智山派の熊野山新宮寺に
帰属することとなった。 

大正10年(1921年)8月27日に郷社、
昭和10年(1935年)11月1日に県社に昇格。








参道入口の鳥居

中央の新宮社証誠殿には速玉男尊、
東側の那智飛龍権現社には事解男尊、
西側の本宮十二社権現社には伊弉冉尊を祀る。 

また、十二社権現社の西・老女宮には
名取老女と、神代文字(阿比留草文字)で
「ククリヒメノオオカミ」
と書かれた木札を祀る。 

飛龍権現社の東には、社殿は無いものの、
神名を記した8本の石の角柱が立ててある。

記される神名はそれぞれ
天之忍穂耳尊
邇邇藝之尊
彦火火出見之尊
鵜萱草葺不合尊
豊斟渟尊・国狭槌尊
泥土煮尊
大戸道尊
面足尊
をも祀っている。 

古くから交通の要路にあたっていたため、
南北朝以来、武家による種々の保護を与えられ、
歴代仙台藩主からも様々な寄進や奉納を受け、
伊達家とも深い結びつきを持っていました。








本殿の『奥の院』には、
中央に証誠殿、
東側に那智飛龍権現社、
西側に十二社権現社と名取老女の宮
が並び建っています。

『熊野造り』と呼ばれる建築様式の
貴重な建造物として、
県指定有形文化財となっています。








熊野神社に舞楽が伝わった時期は不明ですが、
貞観2年(860年) 慈覚大師の
山寺立石寺(山形市)開山に
随行してきた渡来楽人の林家(大阪四天王寺楽人)
の系統を伝えたものといわれています。 

神話「記紀」を題材にした伝承5曲が、
拝殿前の池に特設された
水上舞台で披露されます。 

熊野堂舞楽は県内に伝わっている
数少ない舞楽の一つで、
代々7軒の社家によって相伝され、
門外不出となっています。 

春例祭:4月第3日曜日
熊野堂神楽・熊野堂舞楽 奉納 

秋例祭:10月第2土曜日
熊野堂神楽 奉納 

熊野堂神楽は出雲の流れをくむ岩戸神楽で、
仙台周辺および県南部に分布する
神楽の元祖とされています。

現在、拝殿前の池に常設された神楽殿で
披露されていますが、江戸時代以前は
拝殿の場所にあった長床で舞われていました。 

伝わっている演目は十三番で、
番外編として「巫女舞」があり、
県指定の無形民俗文化財に指定されています。

神楽を舞う7人の社家は
従来から世襲とされており、
今日でも厳格に守られています。











熊野本宮社
の御朱印

御祭神
熊野櫛御家都御子大神
熊野牟須美大神
熊野速玉之男大神
を主祭神とし、他に11柱神を配祀。








熊野本宮社は、別名、本宮十二神とも称され、
主祭神は家津御子神(けつみこのかみ)
という作物の神が祀らています。
以前は、現在地より500mほど離れた
小館と称する山上に鎮座していたと伝えられ、
現在地には万治元年(1658年)に移りました。 

戦国時代末から伊達家との繋がりを持ち、
伊達政宗公の仙台開府以降は、
仙台藩から毎年玄米3石5斗を拝領するなど、
厚く保護されていました。








社号標

春例祭: 4月第3日曜日頃 
秋例祭:10月第1日曜日頃








拝殿

名取熊野三社の一社として
保安元年(1120年)に創建⛩️

創建当時は現社地より500m程南西の小館
という小高い丘に鎮座していた⛩️

また地名も紀州熊野本宮大社の大齋原に準えて
大原と称していたという。 

源頼朝が奥州平泉東征をする際、
当社に武運を祈願し軍に赴き
霊験あらたかな様を覚え、
文治5年(1189年)9月再び詣でて
深く謝拝したと伝えられている。

それ以来武家諸公の崇敬が篤く、
永禄6年(1563年)12月、
奥州探題伊達晴宗より
熊野本宮本殿屋根葺替並びに
神輿、神馬、馬具等が奉納されている。 

万治元年(1658年)に現社地に遷座⛩️

現本殿は元禄6年(1693年)に建て替えられ、
長床、鐘楼、神輿殿などの建物が建てられた。

また昭和8年(1933年)に
拝殿、社務所、摂社を建設し、
昭和58年(1983年)に本殿を営繕し幣殿、
社務所の建替え整備が行われている。 

社地の前には熊野本宮大社の傍を
流れる川に見立てた音無川が存在する。 

また、当社には古く山伏によって
伝えられたという
市指定無形民俗文化財の
熊野堂十二神鹿踊が保存継承されている。








熊野那智神社の御朱印帳

高貴な印象受けますね😄








御朱印帳裏側には熊野信仰のシンボルである
「八咫烏」(ヤタガラス) 

八咫烏は初代天皇である神武天皇を道案内し、
世を治めることに繋がったことから、
勝利に導く神とされています。 

日本サッカー協会のロゴでもあり、
胸元のエンブレムになっています⚽