達谷窟毘沙門堂
の御朱印








受付兼授与所&石造の鳥居⛩️

「ここはお寺か、神社か」
という質問をよくされるようです😄
江戸時代迄はどこの社寺でも神仏が仲良く
一つの所にいた神仏習合だったのです。 

達谷窟は
征夷大将軍坂上田村麿公により
達谷の霊窟に創建された毘沙門堂を
根本道場とし、
その御神域に建つ諸堂と、
別当達谷西光寺境内の諸堂、
及び鎮守社からなる神仏混淆の社寺で、
昔のままです。 








第二鳥居⛩️

古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、
達谷西光寺境内と厳格に区別され、
毘沙門様が主で別當は従来、
毘沙門様に仕え奉るのが勤めとされ、
神事に関わる都合上、
弔事に出仕した当日は、
鳥居をくぐる事さえ叶わなかったとか。
従って壇家は一軒もなく、
寺でありながら
葬式を営まない大変珍しい寺🛕
 
達谷西光寺に於いては、
飛澤にあった
別当達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、
樺澤坊、下田坊の天台三箇院、
さらに赤部あかぶの奉行坊を筆頭に
敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった
本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、
廣照院衆徒として
勢い盛んであったという🛕

しかし、度重なる戦乱で次第に荒廃し、
江戸時代には本坊の正念坊と
脇院の敎覺院を残すのみとなり、
さらに明治維新の廢佛毀釋で、
敎覺院は雲南神社として
分離されて了ったのです🛕
 
爾来達谷西光寺は
一箇寺のみとなりましたが、
法燈護持に努め、
修正會や師走二日に執行される
日本一早い毘沙門様の御年越祭、
そして
四季折々に奉納される神楽等の諸行事を、
今も大切に守り伝えているということです。








本堂

およそ千二百年の昔、
惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷が
この窟に塞を構え、
良民を苦しめ女子供を拐さらう等
乱暴な振舞が多く、
国府もこれを抑える事が出来なくなった。
そこで人皇五十代桓武天皇は、
坂上田村麿公を征夷大将軍に
蝦夷征伐の勅を下された。
対する惡路王等は
達谷窟より三千余の賊徒を率い
駿河国清見関まで進んだが、
大将軍が京を発するとの報を聞くと、
武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。
延曆廿年(801年)大将軍は窟に籠る蝦夷を
激戦の末打ち破り、
惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、
遂に蝦夷を平定した🛕

大将軍は、
戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、
その御礼に京の清水の舞台を模して
九間四面の精舎を建て、
百八体の毘沙門天を祀り、
鎮護国家の祈願所とし、
窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。 
翌延曆廿一年(802年)には
別當寺として達谷西光寺を創建し、
奥真上人を開基として東西三十余里、
南北二十余里の広大な寺領を定めた🛕

降って前九年後三年の役の折には
源頼義公・義家公が
戦勝祈願のため寺領を寄進🛕

奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は
七堂伽藍を建立したと伝えられる🛕

文治五年(1189年)
源頼朝公が奥州合戦の帰路、
毘沙門堂に参詣され、
その模様が「吾妻鏡」に記されている🛕

中世には七郡の大守葛西家の尊崇厚く、
延徳二年(1490年)の大火で焼失するが、
直ちに再建された🛕

戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、
多くの衆徒を擁したが、天正の兵火により、
岩に護られた毘沙門堂を除き、
塔堂楼門ことごとく焼失した🛕

慶長廿年(1615年)伊達政宗公により
毘沙門堂は建て直され、
爾来伊達家の祈願寺として
寺領を寄進されてきた。
昭和廿一年隣家から出火🛕

御本尊以下二十数体を救い出したが
毘沙門堂は全焼した🛕

昭和丗六年に再建された現堂は
創建以来五代目となる🛕

内陣の奥に
慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、
慈覺大師作と伝える
御本尊毘沙門天・吉祥天・善𧸐師童子を
秘佛として納める🛕

次の御開張は令和廿四年となる🛕

毎月三日の月例祭・春秋の大祭を始め
多くあるが、
特に修正会は正月元旦から八日迄行われ、
慈覺大師から二世別當恵海大和尚が伝え、
千余年も続く神事である🛕








岩面大佛

窟毘沙門堂西方の大磨崖佛は
およそ十丈(約三十三m)にも及ぶ
大岩壁に刻まれている。
前九年後三年の役で亡くなった
敵味方の諸霊を供養する為に
陸奥守源義家公が馬上より
弓張を以って
彫り付けたと伝えられている🧐
この大佛は高さ五十五尺(約16.5m)、
顔の長さ十二尺(約3.6m)
肩幅三十三尺(約9.9m)、
日本全國で五指に入る大像で、
「北限の磨崖佛」として名高い。
元祿九年(1696年)の錄には
「大日之體(岩大日)」、
その後「岩大佛」とされ、
現在は「岩面大佛」と呼ばれている🧐
名は岩大日の錄から
大日如來とする考えもあるが、
拙寺では昔から
阿彌陀佛の名号を唱えており、
戦死者追善の伝說からも
阿彌陀如來とするのが
正しいと思われる🧐
その証左として岩面大佛の下に立つ
「文保の古碑」(1317年)には
阿彌陀の種子である
「キリク」が刻まれている🧐
明治廿九年に胸から下が地震により崩落し、
現在も磨滅が進んでおり
早急な保護が叫ばれている🧐








辯天堂
の御朱印








辯天堂

満面の水を湛えていた達谷川や北上川を
美しい浮嶋が行き来するのを、
奧刕巡錫の慈覺大師は、
五色の蝦蟆の姿で、
貧乏を齎す貪欲神が
化けていると見破った🧐
大師は嶋を捕えて
窟毘沙門堂の前まで引きい、
再び逃げ出さぬように
一間四面の堂宇を建立し、
蝦蟆を降伏する白虵、
即ち宇賀神王を冠に頂く
八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、
蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられる🧐
昭和六十年の調査で
蝦蟆ヶ池旧護岸から平安末期の土器が
大量に発掘されている🧐
現堂は、昭和廿一年の大火で焼失し、
昭和四十六年再建の堂が狭小で、
神事の執行に甚だ不便であったため、
平成廿五年癸巳の歳に、
元祿再建時の舊規に倣い、
脇侍の十五童子の内の九躰と共に、
御修覆となったものである🧐








諸説あるようですが、
辯天堂は男女カップルで行っちゃダメ😟
辯財天様が嫉妬すると言われてます🥺

辯天樣は巳年守本尊である🐍
昔から「藥師、辯天には錢上げて拜め」
といわれ金運商売の神で商家の信仰が厚い。
また、智慧の神、技芸の神として
民衆からの信仰が厚い。
「生けるが如し」と賞される美しい御姿は
美人の譬とされたが、
流石に祟を恐れて誰も御貌を
覗き見る事はいなかったという。
悋氣な天女の故、
仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。
蝦蟆ヶ池は神の池で、
ここに棲む生きとし生けるものは、
古来から辯天樣の御使であり、
特にも虵はその最も尊いものとされている。








不動明王
の御朱印

惡路王等は京から拐って来た姫君を
窟上流の「籠姫」に閉じ込め、
「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。
逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を
人々は「姫待瀧」、
再び逃げ出せぬよう
姫君の黒髪を見せしめに切り、
その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。
姫待不動は
智證大師が達谷西光寺の飛地境内である
姫待瀧の本尊として祀ったものを、
藤原基衡公が再建した。
しかし年月を經て堂宇の腐朽が著しい為、
寛政元年(1789年)當地に移された。
桂材の一木彫で、
全國でも希なる大師様不動の大像である。
制作年代は平安後期で、
岩手有形文化財に指定されている。








金堂

古くは講堂とも呼ばれ、
延曆廿一年(802年)に達谷川対岸の谷地田に
建てられたが
延徳二年(1490年)の大火で燒失した。
江戸時代には現在地に建てられた客殿が
金堂の役割を果たしていたが、
明治初年に廢佛毀釋で破棄された。
昭和六十二年に再建に着手し、
平成八年に完成した。
桁行五間梁間六間の大堂で、
後世に技を伝える為、
昔ながらの工法を用いて作られた。
本尊は眞鏡山上の神木の松で
刻まれた四尺(120cm)の藥師如來である。








鐘楼








大オッコウ

樹齢500年😀








窟のしおり








平泉駅から直進すると毛越寺🛕
さらに道なりに走ること10分ほどで
達谷窟毘沙門堂に到着🚙
レンタサイクルで来てる方もちらほら🚲
道の駅厳美渓までは、5分ほど。
この周辺は餅文化のある地域なので、
道の駅にて餅を食すのもオススメ😋
もちろん、
餅を食べられる店は他にもあるので
探して食べ比べるのも良いですね😁