宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった? | いじわるはしないよのブログ

いじわるはしないよのブログ

皆様と気楽に楽しみます、コメント歓迎いたします

宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった?
 剣豪同士の決闘として名高い「巌流島の決闘」といえば、宮本武蔵と佐々木小次郎が一対一で相対している場面を思い浮かべることだろう。ところが実際には、勝利した宮本武蔵側が、卑怯な手段で佐々木小次郎を絶命させていたという。『ざんねんな日本史』(小学館新書)を上梓した歴史作家の島崎晋氏が、その知られざる顔を紹介する。

 * * *

 巌流島は、関門海峡に浮かぶ小さな無人島でありながら、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行なった場所として知られている。

 宮本武蔵は生涯に六〇余度の立ち合いをしながら、一度も負けたことのない天才武芸者。対する佐々木小次郎は豊前国小倉で兵法と剣術を教えていた人物で、長い大太刀を愛用した。

 一般に流布する話では、武蔵は小次郎から平常心を奪おうと約束の時間よりかなり遅れて登場し、武器には舟の櫓を削った、小次郎の大太刀より長い木刀を用い、わずか一撃で小次郎を絶命させた、という。

 だが、これには後世の創作がかなり入っており、武蔵の養子となった宮本伊織が残した文書には、武蔵は遅刻などしておらず、巌流島には小次郎と同時刻に到着したと記されている。

 さらに注目すべきは、小倉藩の家老で門司城代(城主の代理)でもあった沼田延元の家人が著わした『沼田家記』という記録である。

 これによれば、小次郎は一対一の勝負という約定を守り、単身で来ていたが、武蔵の側では数人の弟子がひそかに島に渡り、物陰から決闘の様子を注視していた。武蔵は小次郎の命まで奪いはしなかったが、武蔵の弟子たちは蘇生した小次郎にわっと襲いかかり、とどめを刺した。それを知った小次郎の弟子たちが仇を討とうと大挙して島へ渡ったところ、武蔵は門司城に逃げ込み、沼田延元に身柄の保護を求めて助かったという。

 剣豪同士の決闘が、最後は集団リンチに終わってしまったというのだが、果たして真相や如何に。

※SAPIO2018年5・6月号