さて、どこから始めようかな?
今から訳半年前のことだ。
名古屋栄地下街を歩いているとき、白杖のおじいさんを見かけた。明らかに道に迷っている様子。いつものように「どちらに行かれますか?」とお声がけした。
すると「ここはどこですか?」との問い。
完全に方向感覚、位置感覚を失ってしまわれている様子だ。地上へ上がる階段を探されているようだ。
が、こちらもよくわからず戸惑っていると、「もう結構です」とイラ立った様子で、ふらふらと歩き去ろうする。
ほっとけないではないか。なんとか目的らしい階段へ誘導してさしあげる。
が、やっぱり迷惑そうだった。
「以前に嘘を教えられて大変にな目にあった。だから信用できない」という拒絶のセリフが返ってきた。本当に相手に悪意があったのか、単に案内先を間違えたのかはわからないが……とにかく、おじいさんは不信感でいっぱいのようだった。
それでもしつこく、僕はおじいさんが階段を上がるところまで、すぐ脇について歩いて、見守って行った。
無事に目的の場所まで行ってくれたのだろうか、と今でも思い出すと心配になる。
前置きがアホみたいに長くなってしまった。
うん、構成が間違ってるね。
で、それから約半年が過ぎた現在である。
タイトルにあるように、今は僕が白杖ユーザーになってしまった。
現在、障害者手帳の申請手続き中で、手帳はまだ受け取ってない。
ほんの半年前には、自分が声を掛ける側だったのになぁ。
もう20年近くも日本盲導犬協会にマンスリーサポートで寄付しているのになぁ……って、思う。
実は、前々から僕は目にトラブルを抱えていた。
あまり人には言ってなかったことだけど、十年ほど前、右目の視力を失って失明している。
残っていた左目が、ほんの二ヶ月前から、一気に見えづらくなってしまったというわけだ。
これほどまで一気に急激に短期間で目が悪くなるなんて、いったいぜんたい誰が想像できる?(反語的表現)
さらに念のために書くけれど、まあ、お気付きの通り、こうやってMacBookのキーボードをパコパコ叩いて、このブログを書けているわけだ。だから、左目も失明して全盲になったわけじゃない。
今の僕には、ぼんやりとピンボケで、白く曇った世界が、かろうじて見えている。
あたりまえだが、ショックだ。
「こんなふう」になる覚悟なんて、全然できてなかった。いまだに受け入れられていない。
それでもなんとか、仕事先には事情を理解してもらった上で、仕事を続けられることになった。
というか、強引に仕事復帰した。
ほんとなら、数ヶ月のリハビリ期間をおいたりするのかもしれない。
けど、そんな悠長なことは言ってられない。こちとら非正規雇用で、細々と仕事をもらって口を糊する身だ。
休んでなんか、いられない。
なかばムリヤリ、白杖で歩く訓練を付き添いなしの一人でスタートした。ま、付き添ってくれる人なんていないしね。
さらに、地下鉄に乗って(しかも乗り換えあり)仕事先に出かける訓練も自主的に行なった。
で、ムリヤリだけど、わずか10日で仕事に強引に復帰した。
なんとかかろうじて、自分の食い扶持はかろうじて稼いでいける……はずだ。
さて、自分が白杖ユーザーになって、ほんとうにいろいろなことに気付かされた。
・点字ブロック
ぼやけ手見えてはいるけど、歩くときに頼りになるのが点字ブロックだ。
足で踏むだけじゃなくて、僕みたいに少しは見えている人間にとって、黄色の点字ブロックが道路の道筋を教えてくれるガイドとなっている。
けれど、ほんとに点字ブロックがない道が多い。歩道の途中で途切れていたりする。
それに、点字ブロックがホントにおかしな配置になっていて「こんなん使い物にならないじゃん!」という場合もある。
・段差だらけ
今まで気づかなかったことが申し訳ない気分だ。
しかし、ようやく気づいた。
世の中はめちゃくちゃ段差だらけだ。
「そこに段差要る?」と思うような場所に、段差がある。
地下鉄の出入り口には基本的に数段の段差がある。
建物の入口には、だいたい段差がある。
コンビニの入口にも段差があることが多い。
段差の横にスロープが……ない!
僕のような白杖ユーザーだけじゃなく、車椅子ユーザにもほんと、全っ然優しくない世の中だ。
「優しくない」というかそもそも大多数の人にとって、ハンディキャプを持った人間は「見えていない」というか「存在しない」。
・スマホから目を離せ!
駅のホームを点字ブロック頼りに歩いているとき、点字ブロックの上に立ったまま微動だにせぬ人がいる。ほぼほぼ全員、スマホをいじっている。脇目もふらずに。
あるいは、僕が点字ブロック沿いに歩いていると、正面から僕に気づかずにまっすぐずんずん突き進んでくる人がいる。、「歩きスマホ」だ。
もともと僕は「見えてきた」ときも、スマホをそんなに観る人間じゃなかった。「歩きスマホ」なんてやったことがなかった。
だからこそ、思う。
「見えてないのはどっちだよ!」と思う。
・人の善意を受け取る
これもまた、今の状態になってから遅まきながら気づいたこと。
僕は今まで、人に助けを求めるのが下手すぎた。人が差し伸べてくれた善意を受け取るのも、めっちゃ下手くそだった。
白杖ユーザーになって、時々、声をかけてくださる人がいる。席を譲っててくださる人もいる。
そのとき、ついつい僕は「あ、大丈夫です」と言ってしまう。
けれど、それってよくないよな、と思うようになった。
ほんの数ヶ月前、逆に僕が声をかける立場だったとき、「大丈夫です」と言われたら、ちょっと肩透かしを食らったような気分になったものだ。なんだか声をかけた自分のほうがバカっぽいような心持ちになった。
だから「やっぱり人から差し伸べられた善意はちゃんと受け取らなきゃ」と思うようになった。ほんとに「大丈夫」で助けが不要な場面であっても、ちゃんと「ありがとうございます」と口に出して言おうと心がけるようになった。
そもそも、白杖ユーザーに声をかける人自体が、めちゃめちゃ少ない。
僕も「見えていた」ときにはできるだけ、声をかけて、お手伝いをしようと思っていた。
しかし、どうやらそういう人はレアな存在らしい。
そんなレアな人が親切にも、僕なんぞに声をかけてくれたり、席を譲ってくれたりするのだ。心の底から感謝を伝えたい。
まあ、今の僕はこれまでとまったく同じように生きてはいけなくなってしまったわけだ。
いろいろ思うことは多い。
もう僕は決して、たくさんの本をイッキ読みすることはできないんだろう。
僕の人生で、もう二度と映画館に映画を見に行くことはできないんだろう。
もう旅行に行くこともないだろう。
(カッコつけるけど)もう二度と、僕は夜空の星を見ることもできないんだろう。
それ以外にも、もう僕にはできなくなってしまったことが多い。
死ぬほど多い。
クソ多すぎる。
そんなことを考えると、心底、絶望的な気持ちになる。
けれど、今のところまだ、僕にはできることもある。
スマホやパソコンのアクセシビリティの機能を駆使すれば、解決できる問題も多い。
素晴らしき哉、テクノロジー!
虫眼鏡で拡大して、一文字ずつゆっくりと文字を追いかければ、今の僕にだって、本をまだ読むことができる。
電子書籍なら、さらに読める本が増える。
今はAudibleだってあから、耳で聴くこともできる。
映画館には行けないけれど、我が家の小さなテレビのモニタであれば、白く霞んでピンボケであっても、かろうじて映画を見ることはできる。
今の僕はすべて奪われたわけじゃない。
やれることは、まだまだある。
そうそう、点字を覚えることも始めようと思っている。
まだ今のところ、僕には不要だけど、あといつまで「見える」状況が続くかもわからない。
「勉強」は苦にならない性格だ。
新たなことを学ぶのは、刺激的で楽しいはずだ。
点字を勉強すれば、また新しい世界が拓ける。
悪あがきかもしれない。
けれど、新米白杖ユーザーとして、新米視覚障碍者として、まあとりあえず目の前にある「やれること」「やらなきゃいけないこと」をこなすだけだ。
僕は悪あがきし続けようと思っている。
いつまで続くかわからないけど、続く限りは。
無駄に長い文章になっちゃったなぁ。
誰が最後まで読むんかねえ?