毎度同じようなネタしか書かないし、書けないなあ。
こんなんでも、いつか本を出してみたいと切に願っている。
物語でもいいし、エッセイ本でもいい。
人様に見せられるような文章では決してない。
故に、作ったとて売れる訳がないと思う。
いや、作家で売れたいとは1ミリも思っていない。
書いた文章が誰かの目に止まるだけでいい。
どうせ僕の書いた文章など、僕の好きな作家さんの模倣的なオマージュ作品でしかない。
(具体的には、Fさんと山田悠介かな。伊坂幸太郎は一般教養と仙台愛が無ければまず真似できない。)
話が逸れた。
ブログを書く時はいつも何を言いたいかだけざっくり決めている。次にタイトルをそれらしく付けている。
反対に、タイトルを先につけてから、それに沿った内容の文章を羅列する事もある。
今回のブログは、後者だ。
「死ぬ瞬間を意識してみた」というタイトルから書き始めたのだ。
余談だが、チャットモンチーは作詞をしてからそこにメロディーを付けていたらしい。通りで字余りだなあと思う歌が多い訳だ。でもそれが味わい深くてよかったりもする。チャットモンチーの歌に『余談』という曲があったけど、おそらくこの曲はメロディーから先に作られたと思う。これもまた余談の中の余談だ。
さて、タイトルに「死ぬ瞬間を意識してみた」と書いてしまった訳だが、実際改めてそれを考えてみたりはしていない。
はたまた毎日を「いつか死ぬかも知れない」という悲観的な考えを持って過ごしている訳でもない。
このタイトルを付けたきっかけの一つは、Fさんの本を読み返していた時、そこに書かれていた文章が何となく心に留まったからだ。
「いま身につけているものが遺品になりうる」
これを聞いたら、僕もそうだが現代人は皆、自分が死んだ瞬間を想像して恐怖に戦慄くのではないだろうか。なぜなら万人共通で、遺品になると困ってしまう代物がこの世に存在するからだ。
スマートフォンである。
スマホは恐ろしい。
そこには、持ち主か今まで見てきた文章、写真、作品、絵、ゲーム、漫画、動画、お金、恋人、浮気相手、セフレ、ハメ撮り、事故現場、思い出、などなどなどなどなどなどなどが全て一様に余す事なく収まっている。
たとえ履歴を消しても、その痕跡は内蔵された半導体のハードディスクやらなんちゃらメモリやらよく分からんオプションの中に永久的に残ると思われる。
僕らが死んだその瞬間、僕らの分身とも呼ぶべきそれは、意思無くして世界に放り出されてしまう。そして葬式を終えた相続人によるパンドラの箱の解錠作業が始まる。誕生日など推測されやすい番号でも、好きなものの語呂合わせでも、その時たまたま見かけた車のナンバーから設定した番号でも、パンドラの箱は、解除されてしまう運命にある。そしてスマホのロックを解除されたら最後、他人に見せてこなかった自分の全てが世間に公表されてしまうだろう。そうなると、僕らはこの度二度目の死を迎える事になるだろうと思われる。
スマホには秘密が詰まっている。
だからみんな、電車の中でも飲食店でも家に帰ってからお風呂に向かうほんの少しの間も、肌身離さず持ち歩いているんだと思う。生きているうちは、自分の身を挺して守る事が出来る。生きているうちは。
そう思うと、あの時スマホで調べさえしなければ、秘密はデータではなく自分の記憶にだけ残せたのに。死んでも外部に漏れることなど無かったのに。これぞまさにご愁傷様、である。
長々と書いてきたが、
今回僕が言いたかった事は、浮気はやめようとかエッチな画像を調べるのはやめようとか空想妄想をメモ帳に書き留め無いようにしよう、と言うような終活の話しではない。
スマホに頼らず、世界を自分の目で見て、自分の感性で最大限に感じ取れ、と言うようなスピリチュアル的啓発でもない。(感性で感じとることは、それも大切だけど…)
人生は一度キリだから、いっそ死ぬ時にバレてしまえという気概で、世間から批判されるような事を、道徳や倫理に抵触するような違反を、過ちを何度でも犯してしまえ、という過激派の意見なんかでも、決してない。
僕が言いたかった事。
それは、死んだ人の遺品の方が、その人の死そのものよりも社会的に興味・関心度合いが大きい、という事だ。
菅田将暉が結婚したニュースよりも、神田沙也加が転落死した訃報の方が世間を騒がせたに違いない。
しかしそれ以上に、神田沙也加がなぜ死んだのかの方が世間的な関心は非常に高いと思われる。口にしなくても、強く感じる。
「なぜ死んだのか」というクエスチョンはあらゆる角度から憶測され、やがて根も歯もない噂へと変貌を遂げる。そのきっかけを作っているのは、間違いなく死んだ人が身につけていたもの、すなわち遺品であると考える。
神田沙也加がホテルのルームウェアを着ていたなら、そこから部屋で過ごした誰かとトラブルになり殺されてしまった、などと妄想が湧く。
お酒の缶や折れたハイヒールが転がっていたら、事故死を疑う。
元夫はどこにいたのか(人間関係も一種の遺品だと思う)、アリバイはあるのか、お腹に子どもはいたのか、身体に暴力の痕はなかったか、リスカの痕はなかったか、薬は所持していなかったか、そして、スマホの中には何が残っているのか…
生前その人がその人の意思で手に入れたものが、遺品となってその人の人生を物語る、というより周囲から物語らせられているように思えてならない。
僕は神田沙也加の死を囃し立てたい訳では、断じてない。
芸能人の死亡も結婚もさして興味などない。
M-1の優勝の方がまだ興味がある。
極私的で大変偏った意見だという事は重々承知の上だ。
それでも遺品こそが、その人の死以上に残された人たちの興味をそそるものではないかと信じざるを得ないような気がする。
遺品から推測される事なんて、本当はそんな事なんかない、ただのでっち上げだといくらでもいう事はできる。しかし、そう主張できる当の本人はもうこの世にいない。
本人以上の証人なんて、いるはずがないのだ。
ああそうか。
死とは、抗弁する権利を失う事なんだ。
人はいつか死ぬ。
その時に持ち合わせていたものの全てが、その人の遺品となる。
あの世に持っていけるものなど何も無いのだ。
死体は焼かれ、魂はあるようで無い存在となり、やがてなくなる。
死後の世界は誰も見た事がない。けれど死者が残した遺品は、生存する全ての人間が目にする事ができる。触れる事ができる。どんな人だったのかを考えることができる。またその人を思い出すことができる。
死者への想いは一方通行だ。
墓前に湯呑みと好物のお菓子を供えても、死者は何にも反応してくれない。
しかし、生きている人間の世界には、死者がいたという痕跡が、半永久的に残り続けてしまう。
あの人はどんな気持ちでいたのだろう。
どうして私を残して死んでしまったのだろう。
私はあの人にとってどんな存在だったのだろう。
そんなこと、もう二度と分からないし、
分かったとて何も出来やしないのだ。
あれ?
いつの間にか、考え方が死んだ人側から、生きている人側に変わっていた。
おかしいなあ。
主語の倒錯は作家にあるまじきミスである。
どうやら僕は、作家には向いていないようだ。
そんな事、とっくの昔に気づいている。
気づいていたから、こんな形でしか自分の想いを綴ることができないのだ。
僕の稚拙な文章が、関係者各位に知れ渡る事を出来るだけ遠くの未来に据え置きたいから、
僕はまだ死ぬわけにはいかない。
生きねば。