朝、明け始めた青空に白い月が浮かんでいました。
昨日の未明に見たは月はオレンジ色、その前は月蝕で暗赤色(よく見れなかったけど)。そして満月後のこれからは欠けて行きます。でも、月の本体は同じです。向こう百年や千年ではほぼ変わりません(人間が悪さしなければ)。
心が晴れ晴れとしているときは細い月でも輝いて見えるし、鬱な気分に捕らわれているときは、どんな満月でも不安を感じます。
月とは人の心を映す鏡なのです。鏡そのものはいつもの変わらない鏡だけど、写されるものは変化する。
お寺からもらった「今月の法語カレンダー」の11月は「方便為究竟」。「方便」は今の中国語では、「便利な」「具合が良い」「便宜をはかる」として使われる言葉ですが(だから、中国の人に「嘘も方便」という言葉を使うと誤解されると思います。法華経の「火宅」の例えあたりからきちんと説明するのは大変です)。これが日本の仏教語になると、けっこう重い。
カレンダーの説明文は「(大悲を持って生きていくその生き方を)具体的に表現する(方便)こそが仏としての姿(究竟)である」と空海さんは説くとして、「まずは心から「いつもありがとう」と、大切な人に伝えてみることからはじめて見ませんか。」としています。が・・・・。
「大切な人」を求めるとは? それは「欲」でもありそうです。特定の人に「ありがとう」ばかりしているのも問題かな?
「嘘も方便」はよく使われるけど・・・、そうやっているうちに「嘘」ばっかりの世の中になるのでは? カントなら嘘はこの「方便」は絶対に拒否かな? などなどと朝の月とか、カレンダーの「法語」を見ていて思ったのでした。
良い一日を!
※明日金曜日は、たぶんブログを休みます。
☆写真/画像は、上から今朝の月。昨日踏みつけそうになったカマキリ(驚いて写したらピンぼけ写真になったので、少し加工しました)、自らの影を見つめて何思う? 3枚目は「今月の法語カレンダー」の11月の言葉「方便為究竟」。
↓去年の今日のブログです。アンドレス・セゴビアのCD聴いて、しみじみしていまいした。