3連休。あれやこれやと忙しく動いて(コロナ感染拡大の第6波がどこまで大きくなるのか?不確定要素が多いので、できることは早めに済ませておきたくて、あれこれしています)、結局ゆったりできる?のは明日1日だけになってしまいました。
毎週土・日曜日に行っている「新聞を読む」は明日に先延ばしして・・・。今日は最近のフィルムスキャンの作業で出てきた、「私の黒歴史」現場写真を出します。
1枚目の写真は黒歴史「事件」が生じた現場の「児童公園」の入り口(写真右側)。「事件」の7年後に写したものです。
そして、下の写真が、公園内の砂場。ここで、私は「発見」されました。
砂場の近くには、「事件」から8年後も、「事件」当時と同じように、地元の子どもたちによる盛んな落書きが書かれています(一部、本名と思われる名前は画像処理で消してあります)。
そして、4枚目の写真(下)が、「事件」の発生現場。私は、この坂の上から下の児童公園に転げ落ちた、とされています(警察の人の判断です)。
この「黒歴史」事件の内容は、だいたい以下の通り。
1978年のある日(たぶん週末)。私は小さな出版社の社員として、けっこうストレスが掛かる取材に同行して(某大臣のインタビュー)それを無事終了。そして新橋にあった会社の近くの中華料理店(今でいう「街中華」です。いつもここで編集会議とか仕事の憂さ晴らしやっていました)、打ち上げ。ビールを数本と日本少しを飲んだ私は、その後良い感じに酔っ払って、よせば良いのに紹興酒を1升一人で飲みました(目撃者は、私は一升瓶を抱えて飲んでいたといいます)。
その店を私が飛び出したのは12時近くなっていた(らしい)ですが、私は酔いに任せて新橋から赤坂の自宅に歩いて帰るという、“間違った”選択をしました(まだ地下鉄は走っていたのに)。
そして転落現場に到達。なぜここに来たかというと・・・。TBSの正面右側の坂を登リ切ってから、下に降りていくこの坂は「近道」だったのです。この地に生まれ育ち、高校時代から大学に掛けてTBSの清掃のバイトもしていた私にとっては、当然のコース取りですが・・・・。
もうすっかり泥酔状態の私は、ここでさらに重大なミス。
この坂の上から、下の児童公園に一気に進むことが、さらに「近道」と判断(したのだと思います)。
おぼろげな記憶の中では、この坂の上から公園めがけて「飛び降りた」気がします。
飛んだ!そして、ゴロゴロと転がった。で、意識失いました。
気がつくと、お巡りさんに囲まれていました。時間は夜中の2時過ぎだったようです。
「人が公園の砂場で倒れている」という通報があったとか・・・・。
その後、私はパトカーで自宅に送られて、翌日の酷い二日酔いのあとは、インフルエンザ?で高熱出して寝込みました。
いわゆる「トラバコ」に収容されなかったのは、私の持ち物に取材に同行したときにもらった「某大臣」と「大臣秘書」の名刺がたっからだと思います。あるいは泥酔状態の私が、お巡りさんに、その名刺を見せびらかすように提示したのかもしれません(たちの悪い酔っ払いなら、そういうことやりかねません)。
以上が私の「黒歴史」的な泥酔事件の思い出です。
この事件を忘れずに、“爾後の戒め”とするように、その7年後の1985年2月に私は再開発で変わりゆく赤坂の「現場」をフィルムに収めました。
そのフィルムが数日前に「プチ終活」でフィルムスキャンされ、「現場写真」が確認されたので、さらに“老後の戒め”として、ブログに載せることにしました。私にはもっと酷い「泥酔・黒歴史」もいくつかありますが(さすがにブログに書けません)、フィルムで「現場」が確認できるのは、この「事件」だけです。
☆写真は1985年2月に写した、1978年の「私の黒歴史事件」(1978年某日)現場写真。写真だけ見れば、ちょっと変わった街の風景ですが、私にとっては忘れられない場所の写真です。「坂」の写真(4枚目)の、坂を登り切ったところは、TBSの向かって右側の坂につながります。このあたり、いまはかなり「お洒落な」場所になっています。最後の1枚は、この現場近くで仰ぎ見えた、TBSの電波塔(今はありません)です。
※モノクロネガフィルムを、カラーネガとしてスキャンすると、2、3枚目のように、なんとなく自然なセピアカラーになりました。ただしこれはコダックのTXフィルムの場合。フィルムによっては多少色が変わるかもしれません。
↓去年の今日のブログ。やはり新聞を読んでいます。