gorochasoの映画日記

gorochasoの映画日記

しがない大学生が映画の感想文を垂れ流していきます。

Amebaでブログを始めよう!
若さゆえの勢いで登りつめるが、成功は自分一人のおかげだと勘違いして失墜、その後は何をやっても上手くいかず、改心してゼロからの再スタート…。

この手の青春映画にはどうも共感できないんだよなー。

20年後にもう一度みようと思います。

あと、カメラワークは魅惑的でした。長いけど。
この映画、そんなに泣けますかね?僕は全く泣けませんでした。

なぜか。

この物語の核が吉村貫一郎の「義」である「家族愛」にあるのは間違いないでしょう。そしてそれが佐藤浩市との対比を通じて描かれていきます。

「死なんて怖くない」「誰も斬ってくれないから生きてるだけ」と語る斎藤一に対し、「死ぬのが怖いから斬る」と言って家族や故郷への愛情を隠さず、仕送りのために金稼ぎに興じる貫一郎、という構図です。

そして話はこの二人の変化を描いていきます。斎藤は貫一郎に敬意を抱くようになり、貫一郎は新撰組に心中していく。

なんですが、ここでの貫一郎の変化がなぜ起きているのか、ということが全く分からないんですよね。

例えば薩長に寝返るように説得され、それを断る。斎藤に逃げるように諭され、それを断る。

これらの決断は「家族が最優先」で、家族を食わせるためには旧友を裏切って脱藩することも辞さなかった貫一郎にとっては「義に反する」行為です。

斎藤も「意外だった」と語っているように、観てるこっちにとっても「意外」ですよね。

別に人間がいつも筋道立ってなくちゃいけないとか言ってるわけじゃないです。なんだかよく分からないけど目の前の何かのために本来の目的に外れる道に走るなんてことはいくらでもあるし、それ自体はむしろ人間らしい。

でもこの話は貫一郎にとっての「義」とは?というのがテーマでそれが「家族」だというのは最後まで通して描かれているわけでしょう?
だって死を直前にした貫一郎が回想するのが、「幕府を救えなかったことへの後悔」や「盛岡藩への懺悔」ではなく「家族に会いたい」ということなんだから。

それならなぜまわりにどう思われようと金に執着した男が、自分が生き残る道を選ばなかったのか、というその心境の変化を、その間の葛藤を描かなければテーマについて誠実に応えたことにはならないでしょう?

これじゃあ結局吉村貫一郎という人間を描き切ってないと思うんですよ。

そうなっちゃうと、当然斎藤が貫一郎に敬意を払うようになった理由や意味も薄れてしまうわけです。
官軍(?)に一人突っ込む貫一郎とそれを止めようとする斎藤、というシーンも、せっかく画は綺麗なのに感情移入できません。

もしこの作品が、「家族を養うこと」も「武士としての血」もどちらも捨てられなくて結局どっちにも尽くし切れなかった男が最後に家族に会いたいとメソメソ言うという非常にアイロニカルな話だったとしたら納得です。先にも書いたとおり、すごく人間らしいと思う。
でもたぶんこの作品は違いますよね?
明らかにすべてを「美談」として描いていますから。

やっぱり納得いきません(笑)


まあ後は、貫一郎の描き方もどうかと思いますけどねー。中井貴一は熱演だったと思うけど、なんか終始オーバーリアクションで「めんどくさいヤツ」じゃないですか?笑
旗本になったときのリアクションとかも明らかに空気読めてないですよね?

ふつう表向きは「武士らしさ」を装いつつも影では家族のために一生懸命、みたいな方が惹かれません?笑
まあそれだと完全に違う映画になっちゃうから仕方ないんだけど。でも僕にはあまり共感したくなるキャラクターには感じられませんでした。

最後に。

山田辰夫さんの演技とラストの病院での佐藤浩市の涙はとても素晴らしかったと思います。

山田辰夫さん亡くなられたんですよね。惜しい人を亡くしたと思います。


この映画、いいんですわ。
じゃあなぜいいのか、というのを今日は2つのポイントから考えてみたいと思います。
1、説明の少なさ
まずこの作品、説明っぽさが皆無なんですね。一般に妙な説明っぽさが無い作品というのは完成度が高いといっていいと思います。

例えば、この物語は主人公のヨーク公が言語障害だという設定がストーリーの完全な肝なんですが、そのことの直接的な説明がまずない。序盤の、スピーチをさせられて困って「もううんざりだ!」みたいなヨーク公の描写だったり、「はいはいいつものことね」みたいな奥さんの対応だったりで、いかにこの言語障害が乗り越え難いものかってのが自然と分かるようになっている。このペースで話が進んでいくから観客は自然とストーリーに馴染んでいける。ここで変に説明されちゃったら頭で理解しようしちゃってなかなか馴染めなかったりする場合が多い。

あとはオヤジがヨーク公におもっきりダメだしするシーン。このシーンひとつで「ああ、ヨーク公はこうやってちっちゃい頃から抑圧されてきたんだろうなー」ってのが回想シーン無しで伝わってきます。
後で、実際に小さい頃にオヤジからX脚無理やり矯正されたというエピソードがでてくるわけだけど、後半の戴冠式のリハーサルシーンでは思いっきり内股で椅子に座ってるんですね。おそらくオヤジの抑圧から解放して王として独り立ちしていけるという未来が表現されていたのでしょう。

それ以外にもローグの診療所(?)をエレベーターの扉の描写ひとつで描いちゃうあたりも上手いな~と思いました。

2、ローグが役者の夢を諦めていないこと
どんな専門医がやっても治せなかった症状を快方に向かわせたローグ。しかも無免許。どう考えても天才です。

そんなローグは老いてもなお役者の夢を諦めていません。オーディションでの表情をみれば、本人は役者を「天職」だと考えている。

一方、彼が才能を開花させた「言語障害の治療」ということに関しては、戦時中によくわかんないけど「おまえしかいないからやれ」と言われたからやった仕事。それで戦時中だし無我夢中にやってたらいつのまにか専門になっていた、と彼はいう。そして彼はヨーク公の治療といういきなり降ってきた大仕事をとりあえずやってみるか、ってな感じでやってるうちに、最終的に才能を爆発させるわけです。
自分が天職だと思っている役者で全くパッとせず、頼まれてなんとなくやっていた仕事が実は天職だった。才能は誰か他人から役割を与えられて、それを全うすることで初めてその存在に気づくものだ、という示唆が感じられます。このことはvocationやcalling(=「天職」)が、「召命」(神に責務を与えられる)とか、「神に呼ばれる」という意味を併せ持っていることからもうかがえます。内田樹なんかがよく言っている話です。

そしてこれは主人公のヨークにも全く当てはまる話です。彼はもっと早くて生まれた時から王族という地位を「与えられて」いる。でも自分は向いていないと思っている。
しかし、実際には王位を継承したことで彼の才能も開花することになります。王位継承という「召命」を半ば無理矢理受けたことで、彼は責任感と精神力を発揮して言語障害を乗り越えることができ、リーダーとして国を導く素質が現われていくのです。

この作品の最も良かったところは、2人が「天職」へと導かれていく過程を、「スピーチ」という二人の共同作業に集約したところにあるのではないでしょうか。

これは2人の友情物語ではないと思います。友情も描かれていますが、それは主題ではないでしょう。彼らが「召命」に振りまわされながらも、目の前の課題にひたむきに取り組む姿を描き、それが「天職」へと結実していくところがこの映画の肝だと思います。

そしてそれは、ローグが役者の夢を追っているという、一見ストーリーとは全く関係の無いどうでもいい設定をあえてしていることからも強調されていると思うのですが、どうでしょうか。

最後に、主演のコリンファースの主演男優賞受賞は文句なしですが、それならばジェフリーラッシュにも助演男優賞をあげるほしかったですね。それくらい、二人の掛け合いにはみごたえがありました。