今年も明日一日となりました。

今日は強烈な寒波で日本中が冷え冷えです❄️
 
今年の50周年は沢山のコンサートが中止・延期になってしまい,来年はというとそれ程明るい情報はまだ入って来ていません。
とはいえ,コンサート会場やライブ会場は仮押さえしてある状況で,これまた大変!
 
だからと言って,僕も例年プラスの予定は準備してします。
この状況だからこそ,やりたい事!やらなければならない事!をと考えると,今迄に演ってない事が頭に浮かびます。
 
僕にとって「筒美京平先生」の存在はあまりに大きく,名古屋芸術劇場では先生の曲の作り方に関して実際に教えていただいた事を説明させて頂きました。
あれは音楽関係者にとって 衝撃! だったと思います。
ミュージシャン達も驚いてました。
 
あまりに凄い方なので,あの時はそんな事をしてしまったのですが,恩師に向かってこんな事を言うのはなんと失礼な!と思われるかもしれませんが,前もって理解してして下さい!
だから天才!筒美京平なのです。
先生はヒット曲に対してとても 臆病 でした。
 
かと言っていつも挑戦的で,例えば
「五郎ちゃん,このフレーズどうかなぁ?」
「先生,このフレーズが新しくていいです!」
「そうかなぁ?おかしくな〜ぃ?」
 
新人の歌手の方の曲を作曲する場合その方に先生は聞きます。
「どんな曲聴いてるの?」
そしてその歌手が音域が狭かろうが広かろうが,その人の音域で作曲する!
ヒット曲!を狙っている作曲家だったら,沢山TVに出演しますよ。
 
レコーディングにも殆ど顔を出さない!
僕に言わせれば 臆病 なんです。
でも,ご自身が挑戦しておきながらも 臆病 な部分が世間で斬新と受け止められ,ヒット曲に繋がって行ったのだと思います。
 
1972年12月にリリースした「雨に消えた恋」
この曲は僕がピアノを弾きながら「こんな曲うたいたいんです!」って説明しました。
最後何度もリットして繰り返す!
 
アダモのヘイ・ジュテームだったんです。
秀樹がデビューして来て,敏腕マネのH氏は徹底的に沢田研二さんの歌っている曲を秀樹に演らせました。
秀樹も演出を受け,ファンの方が受けると言う事が分かると上手く曲と成長して行きました。
 
沢田さんのファンが熱狂する曲をミドルティーンのファンの前で演ればそれは失神騒動ですよ😊
 
僕は京平先生に和製アダモやジョニー・アリディが歌謡曲にも必要です!
と言って後半リットで繰り返す「雨に消えた恋」
が生まれました。
僕のその思いを受けて先生が作曲してくださったのがB面の「愛ゆえに」だからBサイドに良い曲があってBサイドにコレクションが出来るのではそうゆう事なんですよネ😅
当時僕も16才だったから怖いモノ知らずだったんですネ🙇🏻‍♂️
 
「心の叫び」もそうでした。
ドラムのリズムやらギターのフレーズ,もっと酷いのはスタジオミュージシャンまで指定して!
本当に恐れを知らない大バカ小僧でした!
 
こんな事もありました。
「五郎ちゃん,今度新曲どんな感じがいい?」
「先生,ロンドンレコーディングの中に,愛のきらめき って曲があるんですが,あれを飛躍させた曲どうでしょう?フリューゲルじゃなくて,シンセ使って!」
それで出来上がった曲が「きらめき」
しかも原曲の「愛のきらめき」は馬飼野俊一先生の曲😱
なんて失礼な,僕は京平先生の曲だと勘違いしていたんです。
出来上がってレコーディングする時,「こんな音域の広い歌,歌番組で毎回歌えないよぉ!」
なんて言いながら,信頼されている事に喜びを感じてました。
「五郎ちゃんの曲を作る時は二曲作るんだよ。前半で一曲サビから別の曲」
 
「五郎ちゃん,今度の曲アレンジなんだけど○○さんお願いして引き受けてくれるかなぁ?」
「何言ってるんですか,大丈夫に決まってるじゃないですか!」
「本当ぉ?」
 
京平先生と光栄にもアルバムを何枚も制作させて頂きましたから,アルバムを聴くといかに天才かが分かります。
先生は結果ヒットメーカーであり,根っからの天才音楽家だった!という事です。
アレンジャーの船山先生や萩田先生ならこの話笑って下さると思いますが…😅
 
先生のデモテープはその段階で殆ど出来上がってました。
その昔,今の打ち込みがない時代もリズムボックスを使い,4ch使ってメロディーの音源はハモンドだったりストリングスだったり,分かり辛い!
 
最後の曲になりました「再会タイムマシーン」その時のデモ音源と添えてあった手紙があるから,それを見ると改めてそうゆう方だった!と思えます。 
 
来年はその様なコンサート,ライブを出来れば数と種類を多く演れたらと考えています。
 

インデペンデンス(映画)❓😱
な訳ないか😊