ご心配をおかけしてすみません!

ショックでショックで!

僕は15才でデビューしました。
本格的に歌手を目指してからの事を考えると,大勢の素晴らしい方々との出会いがあり,かけがえのない経験させて頂きました,そして勉強させて頂きました。

その分悲しい思いを何度もしました!
これも試練だと思います。

筒美京平先生は偉大な方です。
7560万枚のレコードやCDを売ったから!
ヒットメーカーだから!
勿論それは凄いと思います。

でも,ご本人がマスコミに出てそれを自慢したりアピールした事がないんです。

その歌手が,音域が狭い広い!
関係なく,その範囲でヒット曲を作っちゃう。
そのアーティストがどんな人なのか,会ってなくても,写真見ただけでご自分の世界観で作曲しちゃう,しかも時間をかけない。

ヒット曲を作る!という事に必死になる方ではなかった様に思います。

ご本人がお話になる事がそんなに好きではなかったのに,僕が書き込むのは?
と思ったのですが,僕が知っている京平先生を少しお伝えしたいと思いました。

京平先生はヒットメーカーでありますが,何より大変な音楽家で,ピアニストです。

先生に108曲作って頂きました。
ここ最近は「雨のガラス窓」ロンドン録音
「異邦人」ニューヨーク録音
をずーっと聴いてました。

「雨のガラス窓」は僕が19才になったばかりです。
年上の女性に恋をする!というストーリーになってます。
別れた今 から始まり 回想 そして今に戻る!
山上路夫先生の作詞です。

当時はまだマルチも16chでの収録が始まったばかり,DolbyやDBXの様なnoise reduction が出て来るのはまだ4年程先です。
録音状況も全てアナログです。

京平先生はアレンジが素晴らしい!
ベースラインも殆ど指定です。
細部に渡ってきめ細やかで,チェロとベースが突然ユニゾンになったり…
聴く方は心地良いのですが,ミュージシャンは大変でした。

京平先生の曲や編曲で16ビートや8ビートの裏拍をイメージする方が多いと思います。
例えば「青いリンゴ」の こ・こ・ろ2つ目のこ・ろ は裏拍です。
先生の作編曲の特徴で,現在もそれが生き続けているのは京平先生が残された日本人音楽家への財産です。

「雨のガラス窓」では二曲京平先生がピアノを弾いてらっしゃいます。
その一曲が「ほほぬらす涙」です。
このピアノを聴けば,ヒット曲が頭の中に一杯入っているのが分かります。

一枚のアルバムが映画の様です!
僕はこの頃は好きな様に歌ってました。
先生は怒る!なんて事は絶対にありませんでした。
何か言いたい時は譜面を見ながら,手を顎に当てて…
「ここ,どう思う?」って質問なんですよ。

どうしてこんな僕の事を信頼して下さっていたのか?
何も知らない16才の僕は「雨に消えた恋」の曲の依頼の時,曲の構成を先生に伝えてしまったんですよ。
子供だから出来たんですよ,あんな事!

でもそれからなんです。
新曲制作の度にお会いしていたのは…
「こころの叫び」もそうでした。
2ch目に入るドラムのフレーズ迄僕は先生に指定しました。(ミュージシャンまで)

そんな僕を連想して作曲したのが,カップリング曲の「傷だらけのたびだち」でした。

ニューヨーク録音の「異邦人」の制作は 一番楽しくて勉強になった!と仰って下さいました。

レコードでいうB面の一曲目は予定になかったのですが,京平先生が現場のニューヨークでメンバー紹介として作られました。

その後の「暖流」は兄貴の作曲で出来上がっていたので,そこに繋ぐ見事なストリングスのアレンジは絶品です。

「マンハッタンスクランブル」はあんなに凄くて楽しい曲!
シングルでは出来ない醍醐味とスリルを僕はアルバムで体験させて頂きました。
全てが僕にとっての人生の宝物です。

最後に兄弟同士で食事を…と誘われた時,嬉しかった!
テイクアウトライブの事をお話したら
「凄いネェ!」って
だからこそ,最後に頂いた手紙の最後に
「音楽に対する情熱を絶やさぬ様頑張って!」
に繋がってると信じてます。

いつか,というより早い未来
京平先生のアルバムの曲だけを皆さんに聴いて頂けるコンサートを演ってみたい。
ヒットメーカーではない,音楽家
筒美京平先生を微力ながら伝えてみたい!

それにしても先生!
総売上げが
 7560万枚ですかぁ!
これも560がご縁がありますネ!

僕が先生の訃報を知ったのは,撮影の日,滅多に聴かない自分の曲を聴き始めた最初の曲でした。
12日です。
8日の「甘い生活」は知らずに歌いました。
7日の雲は確かに先生との「固い握手!」だったのかもしれません。


左から3番目が京平先生!

僕の曲はシングル曲でもいつもアルバムの延長で考えて下さっていた!いつもそこには挑戦!がありました。

シングル として作って頂いたのは
 夕立のあとで
かな?

海外録音で
「女になって出直せよ」
をシングルカットしたい!と言ったら,当時レコード会社スタッフに猛反対されました。
でも京平先生だけはニコニコ笑ってた!

京平先生は25才になったらアメリカへ行きなさい!って僕に言いました。


行っていたらどうなっていたのだろう?