角松敏生のアルバム『SEA BREEZE 2016』が発売となった。


この作品は今年迎えるデビュー35周年記念の一環として企画され、1981年のデビューアルバム『SEA BREEZE』をリマスタリングした後、ボーカルトラック部分を中心に新たにリテイクしたリミックス盤である。また、初回限定盤には、角松自身の提案により、販売されていたLP(アナログ・ディスク)をレーザーターンテーブルで読み取ったものがリマスター音源となったオリジナル盤『SEA BREEZE』のCDが付けられている。

SEA BREEZE 2016(初回生産限定盤)/アリオラジャパン
¥3,996
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1981年の『SEA BREEZE』発売時はCDはまだ世に出ていなくて、LPとカセットテープのみでリリースされていた。翌1982年にCDが誕生し、ぼちぼち普及し始めた1985年になって初CD化。1989年と1994年にも再発売されて、なんと後者のものは2010年代に入ったいまでも現行商品として販売中である。同じ作品でもアナログレコードとCDとでは圧倒的にアナログレコードのほうが音質が良いという話は、音楽好きでない人でもご存知かと思う。それで、『SEA BREEZE』のCDは1985年に最初にCD化した際の技術的に稚拙なままの音質だったことから、ファンはもとより、角松敏生本人さえも不満を長年抱いていた。それゆえに、今回の音質が大幅に改善されたリマスター盤は悲願だったと言えよう。


『SEA BREEZE 2016』の制作がオリジナルそのものではなく、それを元にしたリテイク盤となり、それから初回限定盤で付いたオリジナル盤のリマスター音源がレコーディング用のマスターテープからではなく、販売されたLP音源から採用した経緯については、角松本人がインタビューに応えたネット記事に詳細が語られているので、ここでは割愛したい。


「Stereo Sound」online

35年間の想いに決着を付けた。「SEA BREEZE 2016」本日発売! 角松敏生さんに単独インタビュー
http://www.stereosound.co.jp/review/article/2016/03/16/44841.html


当ブログのほうでは、角松敏生と、そして『SEA BREEZE』が生まれた1981年の背景を追っていこう。


デビュー前年の1980年春、大学2年生であった角松敏生はアマチュア音楽活動の延長で、プロ・ミュージシャンへの足がかりとなる、デモ演奏テープ審査の音楽コンテストに応募した。落選はしたものの、その応募したデモ演奏テープが音楽芸能事務所 トライアングルプロダクション(角松の前後に、レイジー、杉山清貴&オメガトライブらが所属)の社長 藤田浩一の目に留ったことから、プロになる誘いを受けてそのまま音楽界へと足を踏み込んでいく。当初は当時流行していた洋楽アーティストのホール&オーツを真似た男性二人組のデュオでのデビューも持ちかけられたのだが、それを断ってソロでのデビューとなり、本作『SEA BREEZE』がレコーディングされることになった。


アルバム・コンセプトは、当時流行していたシティポップ路線そのもので、ディスコ、サーファーといった若者ファッション文化を角松本人による作詞・作曲で投影した。ただ、当の角松自身はディスコではフロアの真ん中で踊らずに片隅の椅子席で音楽を聴いているだけで、運動オンチでサーフィンもしていなかった。そのため、実体験ではなくて、ほとんど想像で書かれることになったのだが…。そこがこのアルバムのキモだった。そのコンプレックスで斜に構えた皮肉なんて一切なくて、当時20歳の若者(角松)による憧れが純粋に貫かれていたことで、このアルバムを含めて、以後の音楽活動は、ディスコに通っている者やサーファーら、流行に敏感だった若者たちに圧倒的に支持されていくことになる。


それで全8曲が収録された『SEA BREEZE』のなかで一番面白いのは、2曲目の「ELENA」という曲のエピソード。曲のタイトルは、女性ファッション誌『JJ』の専属モデルだった小川エレナのことで、大ファンだった彼女のことを歌ったものであった。



小川エレナが表紙を飾った『JJ』1981年4月号

ちょうど『SEA BREEZE』のレコーディングが開始された頃の1981年2月末に発売されたものである



音楽だけが取り柄のうだつがあがらない青年と売れっ子の女性ファッションモデル、当然のごとく二人の間には一面識もなかったのだけど、『SEA BREEZE』がリリースされた後、小川エレナは人づてにこのことを聴いて角松を知り、自分がモデルとなった曲も、そしてアルバムも気に入っていく。数年後、実際二人は出逢って交友を持ち、当時角松がサウンド・プロデュースを手掛けていた杏里(代表曲「悲しみがとまらない」は角松が手掛けた曲)の野外コンサートが行われる葉山マリーナに、ふたりでドライブしに行ったというエピソードは、まさにドラマの世界そのものであった。


さて、この『SEA BREEZE』は前述したとおり、全曲ともに角松の作詞・作曲によるものだったのだが、さすがに新人が編曲することまでは適えられなかった。また、その編曲も角松の意に沿ったものではなかったことから、いまに至るまで不本意な想いとして残っていく。事あるごとにそれは語られていて、今回の『SEA BREEZE 2016』でも角松本人執筆による膨大な文字数のライナーノーツに、アルバムに収録されたバージョンに編曲される前の元曲が各々どのようものだったのかまで詳しく記されていた。それで気が付いたのが、このアルバムがある意味で1981年の音がしていないワケを。


たとえばアルバム一曲目を飾る「DANCING SHOWER」、角松はアレンジされたものを“ダンス歌謡”と評してる。まったくもってそうだ(笑)。じつは自分は角松敏生を聴きだしたのは、1995年頃からと、けっこうなまでに後追い。それで、その時代・その時代の最先端サウンドを作ってきたという人物像があっただけに、『SEA BREEZE』を初めて聴いた時、まさしく“ダンス歌謡”で拍子抜けしたようなかんじだった。


ライナーノーツに書かれてある元曲のようなサウンドを頭にめぐらすと、たしかに1981年の“最先端な”音になる。ただ、それではなんのキャリアもない新人が売れるかなあ…とは思う。逆にマニアックになりすぎて、敬遠されるんではないかと。洋楽で流行ったスタイルが邦楽で流行るには1981年当時はタイムラグがあったから、あえてのちょっと流行遅れ気味で、さらに聴きやすいようにベタなかんじで、そうなると“ダンス歌謡”になってしまうのは必然かもしれない。


その当時、〝陸(おか)サーファー〟なる言葉があった。


海の中に入ってサーフィンしている人ではなく、海に対しての陸、つまり街でサーファーの格好だけしている人を指す蔑称だ。でも、サーファーを自称している人の大半がそうだった。角松はまたライナーノーツの中で、この『SEA BREEZE』が生まれた時代を「借用と模倣の百花繚乱の時代」とも捉えている。つまり、本物は見えているんだけど、別に本物でなくても構わない時代だったのだ。


そう、だから『SEA BREEZE』は、〝陸サーファー〟サウンドなんだ。1981年の音楽じゃないんだけど、トータルしてそこにあるのは紛れもなく1981年の世界ということで。