今月10日、大野方栄が1983年にアルファレコードから発表したアルバム『MASAE A LA MODE』が、インディーズレーベルのブリッジによって、ようやくCD化された。販売方法が特殊で、店舗やamazonでは買えなくて販売元のブリッジ通販限定ではあるが、発送をメール便で選ぶと送料無料なので買いやすいかと思う。



ブリッジ公式 大野方栄『MASAE A LA MODE』ならびに最新作『Pandora』 紹介

http://bridge-inc.net/masae_ohno/


【追記】

2015年3月5日に一般ルートでも販売開始

http://tower.jp/item/3832485/?kid=psmjztw



さて、このアルバムは10曲中9曲にカシオペアのメンバーが演奏で関わっており、7曲にわたってカシオペアのメンバー四人全員で演奏を担当しているのが聴きどころ。さらに、カシオペアの既存曲に歌詞を付けたり、シャカタクの「INVITATION」もカバーしたりと内容のほうもスゴい。カシオペアのアルバムで示すと、9作目『PHOTOGRAPHS』(1983年4月23日発売)と10作目『JIVE JIVE』(1983年11月30日発売)の間である1983年8月24日に発売されたもので、野呂一生・向谷実・櫻井哲夫・神保彰による全盛期に手掛けたことからファンの間でも伝説となっていた作品であった。


2009年に発売した、カシオペア・デビュー30周年記念CDボックス『Legend of CASIOPEA』に入れる特典など検討する際、そのスタッフの端くれだった自分は、CD化されたことがなかった『AIR SKIP』(1983年6月25日発売)とこの『MASAE A LA MODE』を強く推薦したことがある。それで『AIR SKIP』のCD化は適ったものの、やはりオマケ扱いが引っかかったのか、残念ながら『MASAE A LA MODE』のほうは見送らざるを得なかった。



LPは作られずにカセットのみで販売されていた。

アメリカのFMにおけるカシオペアを再現したのと山下達郎『COME ALONG』に倣った作りでDJが入っている。

また、「EYES OF THE MIND」と「SPACE ROAD」(あのユニゾン入り)のライブテイクが貴重でそこに価値があった。


『MASAE A LA MODE』の詳細については、田中雄二氏が封入のライナーノーツで大野方栄にデビューの経緯やアルバム制作の流れなどインタビューしているので割愛するとして、当ブログでは『MASAE A LA MODE』も含めて1980年代前半当時のカシオペアにおける他アーティスト作品への参加具合について追っていこうかと思う。


1980年、前年5月にセルフタイトル『CASIOPEA』でデビューしたカシオペアに所属レコード会社であるアルファレコードの出資によってマネージメント事務所、A.D.O.が作られる。それからは、カシオペアは何よりもグループとしての活動を第一とした方針が立てられたことと、アルファレコード、A.D.O.との契約条項には含まれてなかったが、カシオペアのメンバーはアルファレコード以外のアーティストへのレコーディングおよびライブには例外的なものは除いて極力参加しない不文律も介在することになった。


待遇が安定したことで、その不文律は有用されることになり、向谷はカシオペアの活動と併行していたスタジオミュージシャン業を一時停止。野呂や櫻井はデビュー前から親交ある鳴瀬喜博のレコーディングにゲスト扱いで参加するくらいとなっていく。また、プロになるつもりがなかった神保が慶応義塾大学在学中にカシオペアからスカウトされて卒業後もそのままメンバーとなっていった理由の一つに、カシオペアのマネージメントが根無し草みたいなものではなく、慶応義塾大学OBによって運営されていたアルファレコード直轄のもとでしっかりとした会社組織だったこともあるかと思う。なお、慶応義塾大学は卒業生名簿に進路先の欄があり、神保のそれには「アルファレコード」と記載されている。



当ブログ記事 カシオペア・ファン&向谷実ファン必聴!ジュディー・アントン「SMILES」初CD化

http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11540571953.html



アルファレコードの方針によって他社アーティストとのコラボレーションが閉ざされていったことから、同じアルファレコード所属どうしとの時折あるコラボレーションはプレミア性を持った。1981年9月、ブレッド&バターの歌唱とカシオペアによる演奏で制作した、日本テレビのニュース番組『きょうの出来事』テーマ曲「トゥナイト愛して」(作詞:大津あきら、作曲:三枝成章、編曲:野呂一生・松任谷正隆)が発売。この曲は前年に制作されていたもので、当初販売するつもりはなかったのだが、視聴者からの反響が良かったことからシングルレコード化されたもの。その前にもカシオペアはサーカスともコラボレーションして、NHK銀河テレビ小説『太郎の青春』テーマ曲の演奏も担当している(それから三枝成章の作曲による劇伴のほうも兼任)。ただし、こちらは残念ながらレコードでは発売されなかった。




NHKアーカイブス 『太郎の青春』紹介

http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040174_00000



そして1983年8月に大野方栄の『MASAE A LA MODE』となるわけなのだが、10曲中9曲に参加、さらにカシオペアの定番曲であった「TAKE ME」や「LONG TERM MOMORY」(収録曲名「朝のスケッチ」)に歌詞が付けられてリメイクされるといった濃度にもかかわらず、カシオペアと大野方栄の関係は所属レコード会社がアルファレコードといった共通項以外は希薄だ。その前もその後も交流はない。カシオペア・サイドとしては社命の仕事として請け負ったにすぎなかった。以前、リーダーの野呂から『MASAE A LA MODE』について話を伺うことがあったのだけど、大野方栄のエキセントリックなキャラクターに振り回された以外にさしたる思い出や思い入れはなかったとのことである。


ただ、社命の仕事とはいえ、『MASAE A LA MODE』におけるカシオペアの演奏は“さすが!”の一言。カシオペアの作品制作は社員プロデューサーだった宮住俊介がデビュー以来担当していたのだけど、『MASAE A LA MODE』は同じ社員プロデューサーでも有賀恒夫が担当したことで、いつもとは違う魅力も放つ。カシオペアのレコードではジャズ的なアプローチは“コメディー”となってしまうのを嫌ったために表だって出さなかった一方で、こちらでは楽曲の個性に合わせてモロそれが出ている。じつは当時のカシオペアは“弾き捨て”であるライブにおいては、余興の曲だったり、ソロパートの中でもシャレとして本籍ではないジャズ的なアプローチをやることは多々あった。野呂はジャズ・ギタリストであるジョー・パスの理論書を解析したことで奏法も体得していたし、神保は慶応大学のビッグバンド出身、向谷や櫻井もまたそういった分野に通じていたから。レコードとして残った『MASAE A LA MODE』にはカシオペアのそういった裏面的なものがストレートに現れているのが貴重なのである。


他にもこの1983年は鳴瀬喜博のソロ三作目『BASE METALS』(徳間ジャパン)に櫻井と神保が一曲参加。また、野呂は加藤有紀という女性ヴォーカリストのデビューアルバム『TWILIGHT DREAM』(トリオ・レコード)にアルバムタイトル曲を提供&演奏に参加。が、やはり、カシオペアの1983年は基幹活動であるアルバム制作とそれに伴うプロモーションツアーに忙殺されていった。全曲新曲のアルバム『PHOTOGRAPHS』発売からわずか七ヶ月後に同じく全曲新曲(それも書き下ろし!)のアルバム『JIVE JIVE』を制作して発売するなど例年以上の忙しさであった。不文律で縛られたとはいえ、カシオペアで手一杯となり、ソロ活動などしたくてもほとんど出来なかったというのが本当のところである。



こちらは、いまだCD化されない



翌1984年、向谷は亜蘭知子のアルバム『MORE RELAX』(ワーナーパイオニア・・・現ワーナーミュージックジャパン)をサウンドプロデュースすることになる。『MASAE A LA MODE』と同じく、カシオペアのメンバー全員が参加したことから話題となったアルバムで、こちらは向谷と亜蘭によるミュージシャン・シップで意欲的に作られていて、カシオペアとツーカーの宮住俊介がアルファレコードを退社してフリーのプロデューサーとしてほぼ初めて手掛ける仕事だったことで事情がまるっきり違った。




当ブログ記事 向谷実プロデュース 亜蘭知子のアルバム『MORE RELAX』再発売

http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11850441515.html



これを境にカシオペアとアルファレコードとの間にあった不文律が緩くなっていく。また、カシオペアの活動形態にも変化があり、創作活動が常にすり切れている状態となっていた年二枚のアルバム制作を取りやめて、年一枚へと絞っていった。その空いた分の替わりとして1985年から1986年にかけてメンバー各々のソロアルバムを制作していくのだけど、諸事情によりどれもアルファレコードからの発売ではなかった。


MUSICMAN-NET Musicman's RELAY 「第88回 村井邦彦氏」 アルファレコードの成功と挫折

http://www.musicman-net.com/relay/88-7.html#item-1

別資料によると村井邦彦は1985年にアルファレコードを離れたらしい


カシオペアは1986年にアルファレコードとの契約を完了して、翌年ポリドール(現・ユニバーサルミュージック)に移籍。それによってアルファレコード出資のマネージメント事務所であるA.D.O.もなくなり、新しいマネージメント事務所のオーラ・ミュージックを自ら設立して新体制となるも、A.D.O.スタッフの大半が移籍して人事そのものには変化がなかった。カシオペアは移籍したレコード会社のポリドールでは自主レーベル、オーラ・レーベルを展開。カシオペアの他、メンバーのソロ、当時ライブツアーに帯同していた専属ボーカルの楠木勇有行などをそのレーベルから発売した。また、引き続きグループとしての活動を第一としながらも、他社アーティストとのコラボレーションも展開する。そのひとつが野呂が同じポリドール傘下だったキティ・レコード所属の是方博邦、CBSソニー(当時・現ソニーミュージックエンターテインメント)所属だったザ・スクエア(現・T-SQUARE)の安藤まさひろ(現・安藤正容)らと結成したギタートリオのオットットリオだ。ホール展開でのライブツアーが行われたばかりか、同じライブ音源を元にしたアルバム『HOT LIVE』(オーラ)と『RED LIVE』(CBSソニー)も出せたのは、制約があったアルファレコード時代では適えられなかったことである。