毎週日曜日午後2時から放送の山下達郎がDJをしているFM番組『サンデーソングブック』(TOKYO FMをキーステーションにJFN系全国38局ネット)、先月1月26日放送「極私的 青山純追悼特集 PART2」のなかで山下達郎本人が5分以上にわたって述べたコメントが話題となっている。


とある番組リスナーの方が書き起こししてあるので是非ともお読みいただきたい。また、YouTubeにはその部分の録音したものも載っている。探して聴いてみる価値はあるかと思う。これほどまでに山下達郎がラジオで感情をあらわにして自分の意見述べていたのは驚く。


http://d.hatena.ne.jp/hibiky/touch/20140126/1390720713


要約すると、1970年代末に無名に近かった青山純の起用開始時のスタッフやファンの評判、そして2000年代に青山純が外れて以後は後任のドラマーに任せていることに絡み、芸事に対してのお客さんの保守性がいつの時代でも厳然として存在するのは、それは自分史の投影、自分史の対象化から外れるから(つまるところ、新しく出てきたモノは到底認められない)というファン心理を辛辣に分析。また、青山純からひと月も経たないうちに急逝した大瀧詠一も含めて、追悼特集の在り方についても言及し、番組宛にファンから送られてくる無茶な要望は遮ると宣言している。


昨年12月、青山純が亡くなった時、山下達郎は全国ツアーの真っ最中であった。元より昨年後半は、録音放送の『サンデーソングブック』は放送日より遙か前に収録せざるを得ないことで気候の具合や時事ネタに触れられないことを毎週詫びながら始まっていたくらいだった。それでも青山純の急逝については昨年末の竹内まりやを迎えての「夫婦放談」回でも触れられていて、12月24日にツアーがすべて終わった後で年が明けてからじっくりと追悼特集に取り組むことが約束されていた。そんな矢先に今度は大瀧詠一の訃報も飛び込む。


明けて新年第一週(1月5日)、第二週(1月12日)は前年中にすでに録り終えていたものが流されたのだが、異例ともいえることに、番組冒頭で後付収録による追悼コメントを述べたのと、これから放送する分は亡くなる前に収録したものと断りも入れた。


大瀧詠一が亡くなって、近しいミュージシャンや仕事仲間はいっせいにツイッター、FacebookなどのSNSを通じて哀悼した。SNSやっていない山下達郎も自身の公式WEBで哀悼のコメントを掲載。しかし、年明けからAM/FMのラジオで大瀧詠一ゆかりの人たちを招いての追悼特番や追悼特集の放送が続々と組まれたそのどれにも山下達郎は出演しなかったし、コメントも寄せなかった。そこに、番組冒頭のコメントだけだった『サンデーソングブック』は〝緊急追悼特集〟を待っていたファンにとっては拍子抜けともいえたものであっただろう。


自分としては「アオジュンの追悼特集をやる前にやるかなあ?」と懐疑的であったし、「タツローのことだからいまはやらないヨ」とも確信していた。


いまから三十年近く前の1985年、東京の国立競技場で「ALL TOGETHER NOW」という一大音楽イベントがあった。当時名のある国内ポップス&ロックス系アーティストが一堂に会したもので、シュガーベイブでデビュー前後から交友がある面子ばかりの、ユーミンが加藤和彦とサディスティックス(+坂本龍一)を従えた一夜限りのサディスティック・ユーミン・バンドが登場したり、解散以来のライブとなったはっぴいえんどの復活で大瀧詠一も参加したくらいなのに、山下達郎は参加してなかった。


ラジオが生んだ伝説の野外音楽フェスティバルが

28年ぶりに蘇る。秘蔵音源を特別番組でオンエア。

http://atn2013.jp/index.html


また、直後にアメリカの「USA for Africa」に刺激を受けた「アフリカセッション飢餓救援コンサート」が都内各地で行われたのにも山下達郎は参加することはなかった。


翌1986年に発表した『ポケットミュージック』のプロモーション・インタビューで、前年参加することがなかったこれらのことに関して「だって、徒党を組みたくないし、誘われてもその輪の中に入りたくもない。やりたい人だけでやればいい」というようなコメントを言い放っていた。ただ、こんなにもブラックな山下達郎に誰も反論出来なかった。国連が制定した国際青年年記念とお題目は付いていても軽薄短小の時代における「ALL TOGETHER NOW」は一夜かぎりのお祭りで終わって特段何かを遺さなかったし、アフリカ飢餓救援も1985年のブームで所詮はファッションに過ぎず、1986年になると流行遅れのレッテルが付いてしまったのだから。


〝みんなで一緒に何かするって楽しいことだし、イイことだろ?〟

〝隣の人も参加することだし、キミも参加しなきゃ!〟


大ヒットCM曲「RIDE ON TIME」で小学生の頃から知ってはいた山下達郎、思春期に差し掛かる1985年のシングル「風の回廊」と「土曜日の恋人」でダブルパンチを受け、それらが収められた翌1986年のアルバム『ポケットミュージック』から能動的に聴き出した自分にとって、次に〝どういう考えで音楽作っている人なのか?〟って人となりに興味覚えてみてたら、真っ向からそれを否定した考えの持ち主だったのは鮮烈であった。


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大瀧詠一の追悼特番なり追悼特集で、出演者はみんな〝伝説のはっぴいえんどの〟〝趣味趣味音楽の〟〝ロンバケで一時代を築いた〟〝隠居していて世に出てこなくなっても〟というように、とっておきの逸話を紹介してきた。それらは聴き応えあったし、追悼の本懐でもある。大瀧詠一という人は、どこを切っても面白い人だったとあらためて知ることが出来た。だからこそ、山下達郎のファンにとっては、山下達郎のメジャーデビューを語る上で欠かせない大瀧詠一について、超が三つくらい付くような超々々!とっておきの逸話へ想いが募っていたのだろう。それから、山下達郎ならば大瀧詠一の、山下達郎×大瀧詠一のレア音源をこの際に出してくれる期待もあったかと思う。


だが、山下達郎は通夜振る舞いの席みたいな賑やかさであった大瀧詠一追悼特番&特集のどれにも現れず、また自身の『サンデーソングブック』における先述のコメントで、何かオコボレ期待している輩をピシャリと断じた。


「正論だ」と賛同するものもいれば、「逆ギレみたいで大人げない」と反感を覚える人もいることだろう。自分は良いか悪いかは別にして、右から左まで、上から下までのどんな意見にも番組に届いているメッセージにはちゃんと目を通しているんだなと、いまさらながら感心した。


1990年代半ば、自分は『サンデーソングブック』にリクエスト葉書を出して採用されたことがあった。〝ライブ音源で「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-」 を聴きたい。なければマッチに提供した「ハイティーン・ブギ」の歌唱デモ音源でもOK〟というものだった。昨年の全国ツアーでもレパートリーに入っていた「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-」は当時は十何年もライブでやっていなくて、それまで数々のライブ音源のリクエストに応えてきた山下達郎自身でも音源らしい音源はストックしていなかったので困った挙げ句、演奏荒いけどこれならばまあなんとか・・・というかんじのクオリティで1980年の逗子マリーナだったかの野外ライブで演奏した音源を初出ししてくれた。そういう事情を最初から知っていて確信犯的に強請ってみたのだ。ちなみに、「ハイティーン・ブギ」の歌唱デモ音源というのは、若き日に手掛けた「いちじく浣腸」のCMソングとともに、まあ落語でいうところの“サゲ”(落ち)で、当時リクエスト葉書出す人の定番なシャレだった。


自分の悪い癖でハナから懐古趣味だし、ないものを放送用素材に生成する作業がどんなに大変かも知らずに、若気の至りで全く持って無理難題押しつけてしまったと、いまさらながら恥ずかしい想い出だ(笑)。


先述のコメントで賛否両論呼んだ翌週の2月2日放送分。特集は、いつもの「棚からひとつかみ」。あるオールディーズ曲を掛ける際の前振りで、レコーディング前のシュガーベイブが招かれた大瀧詠一邸で「これがニューオリンズだよ!」と教授された逸話をサラッと出してきたり、その曲に入っている曲間の大騒ぎする演出がシュガーベイブの「シュガー」に受け継がれているとも紹介。


うーん、そう!

こういうのイイ!!


やっぱりね、ファンの求める声があれば適えてくれるんだと思うんだ。ツンデレなんだよ、山下達郎は!


追悼特集に関心はないなんて格好付けても嘘になるから、心情的に「追悼特集」早くやってくれ派に賛同すると、人の気持ちが昨日と今日とで変わっていくように、掛けたい曲は昨日と今日とで変わっていくかと思う。山下達郎ファンは、大瀧詠一が亡くなった時、何を想い、何を振り返り、音楽人としてどの曲を想い出に捧げたのか、そういうこと知りたいのは本音のところだ。ただ、そういうのを畏まった追悼特集で出されるよりも、山下達郎らしかったと思う。本人は「これが追悼」とか全然そんな気じゃなくて否定したとしても、音楽を嗜む時に心のどこかに、大瀧詠一やシュガーベイブへの想いがあるんだなとファンは感じたに違いない。