昨日12月3日、ドラマーの青山純さんがお亡くなりになりました。死因は心臓発作(追記:5日発表によると正確には肺血栓塞栓症と診断)とのこと。最近は体調崩して主宰のドラムスクールを休講するなどしていたらしいですが、あまりにも突然のことで驚きました。一番著名な仕事であった山下達郎さんのサポート、後追いでしたが1970年代末からのザ・スクエアとその後のプリズム参加期、おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」のドラムも・・・、自分が親しんできた音楽には青山純さんのドラムがありました。心からお悔やみ申し上げます。
スポニチweb 「名ドラマー・青山純さんが死去 56歳 山下達郎らのライブに参加」
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/03/kiji/K20131203007130720.html
カシオペア関連の青山純さんの事柄を綴っていきます。なお、これからはいつもの敬称略で書いていきますのでどうぞご容赦のほどを。
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神保彰がツイッターの追悼コメントで、青山純と最初に出会ったのはカシオペアに入って間もなくの日比谷野音でのイベントと綴っている。
http://www.edithot.com/gist/all-407868371636465664
これは1980年4月27日に行われたフュージョンのイベント「Fusion Vibration Fusion Tonight」を指す。鳴瀬喜博がいた金子マリ&バックスバニーの事務所が仕切ったイベントで、鳴瀬喜博は山岸潤史&難波弘之グループに参加、その他の参加バンドに「EastWest'77」以来付き合いのあるカシオペア、ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ、神崎オンザロード、生活向上委員会、森園勝敏&バーズアイビュー、そして青山純がいたプリズムと、ロック系から派生したフュージョングループが一堂に会したものであった。
カシオペアとプリズムは、そのギタリスト兼リーダーどうしである野呂一生と和田アキラが16歳の頃からの知り合いで、同じロック演奏のコミュニティが出身母体となったことはよく知られている。それで奇しくも、この神保彰が青山純に初めて出会った時の両グループの活動状況は結構似かよっていたのだ。
カシオペアは「EastWest'77」参加以来のドラマー・佐々木隆が抜けて、慶応大学のビッグバンドに居た隠れた逸材、神保彰をスカウト。神保が加入してのカシオペアは1980年初頭から活動開始し、同年2月にライブレコーディングした3枚目のアルバム『THUNDER LIVE』を発表したばかりという新しさだった。
先行してデビューしたプリズムも前年1979年に4枚目のアルバム『PRISM LIVE』の発表後、ドラマーをすでにプロデビューしていた青山純にメンバーチェンジさせて、デビューメンバーの和田アキラと渡辺建、そして『PRISM LIVE』から参加した佐山雅弘の4人組となって同年8月発表のアルバム『SURPRISE』制作に向けて再出発し始めた頃であった。
青山純はプリズムにはアルバムでは1983年発表の『∞ 永久機関』を最後に、ライブへは1984年初頭まで在籍した後に脱退していく。
当ブログ記事 「深町純とプリズムのレア作品がタワーレコード限定で復刻」
http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11247650332.html
青山純参加期の6作品を網羅してある
振り返ってみると不思議なもので、出自が同じカシオペアとプリズムはこうして比較されたり、一緒に語られることが多いのだが、同時期に加入したドラマーである神保彰と青山純が比較されたり、一緒に語られることはあまりなかった。個人としては出自が違っていた他、神保彰は後年にソロアルバムを出すまでカシオペアのグループ内に留まった活動だったのに対して、青山純はプリズム活動中も山下達郎をはじめ、さまざまなアーティストのバックで活動していて形態で大きく違っていたからかと思う。
それに、プリズムだけでなくその直前にはザ・スクエアにも在籍するなどフュージョン・シーンで広く活動していた青山純は、一方でカシオペアとは個人的な関係が薄く見られるが、じつは結構深いものがある。
カシオペアの初代キーボーディストで、後にビートたけしのレコーディングディレクターとして名を馳せるビクター小池こと小池秀彦は、カシオペアを離脱してビクター音楽産業にディレクターとして入社する間に、いくつかのバンドに関わっている。その中の一つにシンガーソングライターの杉真理が1977年デビュー時のMARI & RED STRIPESもあった。このバンドに青山純が関わっているのだ。小池秀彦以外にも野呂一生や櫻井哲夫らも杉真理をはじめとしたこの界隈のミュージシャンとは当時から親交があり、もちろん青山純や、そしてその頃からリズムを組んでいた伊藤広規とも知り合うことになった。なお、今年2013年に野呂一生は伊藤広規がプロデューサーとなった70年代からのオトモダチ人脈を集めた「GUITAR☆MAN」というライブイベントに出演している。
そういうわけで、カシオペア関連の作品にもいくつか青山純が参加しているので、それらを紹介。
● 櫻井哲夫初のソロアルバム『DEWDROPS』(1986年4月21日発表)
このアルバムの成り立ちは面白くて、もともとはカシオペアがグループとしての活動を休止して期間限定の個人活動に入った1985年に、他にも初のソロアルバムを作って発表した野呂一生や向谷実と同時期に制作開始されたものだった。
ジャケットから当時流行のニューヨーク録音かと思いきや、東京のおなじみスタジオ・ジャイブで収録
櫻井が着ているコートが“白衣で医者のコスプレをしている”とよく間違えられた(笑)
ただ、その当時はフルアルバムの形態ではなく、流行していた12インチシングルを2枚、そのAB面の4曲分だけを作って1985年中に発表しようとしていたのだ。しかし、その4曲のレコーディング後にフルアルバムとして作り直すことに変更して、1985年後半から始まったカシオペアのスケジュールをこなした後、1986年に設けられた第二弾の個人活動期間に残り5曲のレコーディングを再開したという変則的な作りとなっている。
それで1985年にレコーディングした4曲と1986年にレコーディングした5曲とでは空白期間が半年もあったために、楽曲のコンセプトもメンバーもガラリと違ったものになってしまったのだが、青山純だけはダンスミュージックを意識した1985年に制作した12インチシングル構想期にも、そしてコ・プロデューサーとして鳥山雄司を招いて1986年に制作したフルアルバム化期のどちらにも参加しているのが興味深い。
● 野呂一生プロデュース 楠木勇有行のアルバム『CHOOSE ME』(1987年10月25日発表)
このアルバムも成り立ちからウンチクを述べていきたい。1987年、カシオペアはデビュー以来のアルファレコードからポリドールに移籍して自主レーベル、オーラを立ち上げる。第一弾はカシオペアのアルバム『PLATINUM』(1987年9月1日発表)で、それにつづく第二弾のアルバムに、当時カシオペアのライブにゲストボーカルで帯同していた楠木勇有行のアルバムを野呂一生がプロデュースすることとなった。
収録曲でタイトル曲にもなった「CHOOSE ME」は1986年から1987年前半に
「EVERYTHING IS ALLRIGHT」は1987年後半にカシオペアのステージでも披露されている。
このアルバムに収録された12曲のうち3曲は、カシオペアのアルバム『SUN SUN』のプロデューサーでもあるカルロス・アロマーによるもので、先行して前年1986年にニューヨークで収録されてきている。それでアルバムの名義としては野呂一生&カルロス・アロマーのプロデュースとなっているものの、形態として別々にプロデュースされたものである。
さて、青山純はベースの伊藤広規とともに野呂一生プロデュース部分の9曲に参加。当時の野呂一生はソロアルバムを始めとしてカシオペア以外で手掛ける音楽に〝カシオペアとは違ったものを〟という考えが常にあり、その現れとしてカシオペアのメンバーを起用しないポリシーがあった。でも、このアルバムにはそれ以上に、アオジュン×コーキのリズム隊の採用に歌モノに対する野呂一生の想いみたいなことが垣間見られる。
最後に番外編。カシオペアのメンバーと絡んだものではないのだけど、1989年にカシオペアのデビュー以来のプロデューサー・宮住俊介が請け負った仕事で、内海みゆきのアルバム『セピアムーン』(1989年10月21日発表)というのがあった。このアルバムには、野呂一生がオットットリオで共演したキーボーディストの吉弘千寿子を伴って参加して作・編曲した2曲、櫻井哲夫と神保彰が組んだシャンバラがバッキングした4曲(アレンジはシャンバラのキーボーディストだった梁邦彦)が収録されていて、カシオペアが分裂に向かう混乱の中、ファンにとっては知る人ぞ知るアルバムとなっている。
それで野呂一生・シャンバラ参加以外の収録曲に青山純が2曲参加していて、そのセッションのベースに若き日の亀田誠治と組んでいるのだ。いまをときめくベーシストではあるが、当時はまだ駆け出しの頃。亀田誠治もまたツイッターでその頃のことを綴った追悼コメント出している。
http://www.edithot.com/gist/all-407839028755460096