1985年5月21日発表の初のソロアルバム。その三年ほど前から「ソロを作ってみたい」と公言していたが、カシオペアの活動を休止して個人活動の期間を作った際にようやく実現されることになった。


茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry
1995年に一度廉価盤が発売されたのみで現在まで長らく廃盤状態。名盤なのに惜しい!



1985年1月、野呂はコンサート・ツアーで来日していたジョージ・デュークに会いに行き、「プロデュースをしてほしい」と申し出たものの、幾つかすでにプロデュースが入っていたのとインストをやったことがないとの理由でやんわりと断られてしまった。それでも、「カシオペアをプロデュースしているのだから、自分でやればいい」という目から鱗が落ちるアドバイスを受ける。そうして自分でプロデュースすることになった野呂は参加させてみたいミュージシャンをピックアップしていて、そのほとんどがロスの人だったので、ロスでのレコーディングを決めた。


2月末日、野呂はロスに到着。翌月からスタジオ・サウンドでレコーディングを開始する。初めて使うスタジオではあったが、コーディネーターとして松居和が全面協力し、また1980年に同じロスで録音した『EYES OF THE MIND』でエンジニアを務めたピーター・チェイキンが担当したのも頼もしかった。他の仕事を抱えていたために全行程には参加できなかったものの要所要所で参加し、レコーディングのキメどころ、ミックスダウンでは野呂とともにハリのある心地よいサウンドを作り上げた。


●ライブでの再現性にとらわれないサウンド
3週間あまりのレコーディングは、参加ミュージシャンの技量を活かして野呂が独りで作ってきた多重録音のデモ・テープとスコア譜で書いたものを参考にしてもらい、あとはオマカセという方法をとった。『4×4』で共演したネイザン・イースト(b)と初共演ながら野呂のキモ入りで起用されたジョン・ロビンソン(ds)による強力リズムで「これぞ!L.A.」という音を聴かしてくれる。しかし、2曲目「THE MESSAGE IN THE NIGHT」だけはデレク・ナカモトによる打ち込み。その分、ポリーニョ・ダ・コスタ(この方も『EYES OF THE MIND』に参加していましたネ)の生のプレイが効いているシカケにした。


WEEKEND FLY TO THE SUN/角松敏生

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1982年発表の角松敏生二枚目のアルバム
同じ松居和コーディネートによるLA録音で、ネイザン・イースト×ジョン・ロビンソンが参加している

こうした野呂の目論見は見事にはまる。事前にデモ・テープを誂えて、ゲストなしの一発録音で行った『DOWN UPBEAT』が設計図通りならば、野呂の想定したものにプラス・ハプニング性を期待した『SWEET SPHERE』は設計図以上のものが出来た。ネイザンやピアニストとして参加してもらったパトリース・ラッシェンが自らの申し出でコーラスに参加して一味違ったものにしてくれたり、「WISHUFUL THINKING」ではそのレコーディングのノリの良さが目立つ。この曲はリズム録りのときのテイクがそのまま使われたもの。しかも、フェード・アウトして終わっている以降も3分以上延々と続いていたのだと!

ソロのテーマは、ライブでの再現性にとらわれない、アタマで思い描いているそのままのサウンドを目指した。一聴して野呂節とわかるような「IN OUR WAY OF LIFE」ではブラスセクションを思いっきりフィーチャーするなど、いままでカシオペアの枠組みの中でしか展開しなかった野呂の方法論を新たな次元で具現している。また、初のソロアルバムだからといって、『SWEET SPHERE』はギタリストのアルバムということを感じさせないようにした。野呂はソロアルバムを構想し制作するなか一貫してプレイヤーというよりはコンポーザーとしての自分を意識していたものからである。わざとギターを前面に出さなかったそのサウンドはオーソドックスでありながらも、上質な音を響かせてくれる。


ライヴ・フロム・レコード・プラント〈特別版〉 [DVD]/リー・リトナー&デイヴ・グルーシン

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1985年収録、LAでのスタジオ観覧ライブ作品
『SWEET SPHERE』に参加直後のラリー・ウィリアムスがサックス&キーボードで参加している

●ジョー・パスとの出会い
スタジオ・サウンドはふたつのスタジオを持ち、野呂はこのレコーディング中、そのとなりのスタジオで久々にハービー・メイソンに出会う。ハービーとはまたこの年のカシオペアのヨーロッパツアー中にもノースシー・ジャズ・フェスティバルで出会うなど以後結構会う機会が多かった。そして、このスタジオで出会った、野呂にとってもっとも印象深かったのはギタリストのジョー・パスであった。ジョー・パスがハービーらを起用したソロアルバムをレコーディングしていたのだ。


有名な話で、野呂はカシオペアの活動を始める直前の1975年前後、ジョー・パスの「JOE PASS GUITAR STYLE」という教則本を購入してそこに書かれてあるものからコード理論を独学で学ぶ。それまでハードロック一辺倒だったのが、ジャズも吸収したいと思っていたころに出会ったものだ。前年の『DOWN UPBEAT』、それに続くこのソロアルバムで自分の音楽体験のなかにあるジャズのフィーリングを集大成にしてまとめあげようとしていた。


Whitestone/Joe Pass

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『SWEET SPHERE』レコーディングのとなりのスタジオでレコーディングされていた『WHITESTONE』
80年代半ばらしく、MPBのカバーあり、シンセを全面に出した曲などもあって、かなりポップなアルバム


●地球人、野呂一生
野呂は『SWEET SPHERE』というタイトルに地球や魂(たましい)といったものを意味させ、過去に独りでインドに赴いたり、カシオペアで世界中を廻る自分が日本人だけでなく地球人であるという意識のメッセージを込めた。そして、じつに瞑想的な風景をバックにしたアルバム・ジャケットは、レコーディングもほぼ終わりに近づいた3月17日、ロス郊外のモハビ砂漠があるカリフォルニア・シティで撮影されたものが使用される。これは、アルバム一曲目を飾る「BRIGHT TIMES」のプロモーション・ビデオのロケ撮影の際に撮られたスチール・ショットのひとつだ。


●カシオペアとそれ以外、その功罪

先頃発表されたカシオペアの第3期を示すCASIOPEA 3rdは、野呂の幾つかある活動にプラスされたひとつというスタンスとして伺っているが、1990年から2006年までの第2期では半ばからカシオペアかソロ、そしてこのファーストソロアルバム『SWEET SPHERE』が作られた1989年以前の第1期では、カシオペアと“それ以外”として括られる。


当時はすべてにおいてカシオペアのスケジュールや方針が優先されていて、『SWEET SPHERE』は活動休止中に作られていたものの、その傍らにおいては常にカシオペアの存在が歯止めとしてあった。これは野呂以外の他のメンバーも同じで、だから濃密なまでにカシオペアの活動が送ることが出来たわけである。


四六時中同じ事を同じメンバーでやるのはさすがに息が詰まる。一時的にカシオペアを離れてのソロアルバムの制作はいわばガス抜きであって、この1985年から翌1986年に掛けて他のメンバーも全員初めてのソロアルバムを制作しているが、誰一人してカシオペアの枠組みに拘らないもので仕上げた。これは「ソロアルバムは作ってもそれを元にしたライブ活動はしない」というカシオペアの中での決まりを設けたからだ(当時唯一向谷実がヤマハのX-DAYというイベントで『ミノルランド』を元にしてデモライブを行っていたが、以前から続いているヤマハのシンセ開発の活動の一環でもあって例外的なものであった)。


なので、『SWEET SPHERE』のプロジェクトはその制作期間のなかで完結していって、以後発展しなかった。これをストレートに残念と受け取るか、カシオペアに負の影響をもたらせずに、作品としてもハイレベルなままに「永遠となったもの」として好意的に受け取るかは、人それぞれ自由である。でも、当時何かのインタビューで、野呂は今後のソロ活動の展望としてクインシー・ジョーンズを例に挙げて、自らは演奏せず、作曲とプロデュースに徹するんじゃないかと話していた。謙遜として受け止めているが、野呂は『SWEET SPHERE』の不満点として、いままでにないほどに曲作りやプロデュースに没頭したからギタープレイに集中出来なくおざなりになってしまった点をこぼしていた。先の展望はここから来ているのであろう。


茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry
同じ1985年、ソロを出したビクター所属の二名敦子のアルバム『WINDY ISLAND』に野呂は楽曲を提供

80年代後半にフェードアウトした二名敦子は最近杉真理や村田和人らに誘われて活動を再開している



というわけで、『SWEET SPHERE』のプロモーションにおいてはライブ活動は行われず、雑誌媒体のインタビューと幾つかのFMラジオのトーク番組への出演、そしてテレビ番組でフジテレビ『笑っていいとも!』のテレフォンショッキング・コーナーへの出演(だけど、恒例の宣伝ポスター貼るときだけで、以後はアルバム制作の話はせず)のみであった。


テレフォンショッキング・リスト 1985年4月1日~6月28日

イリアからの紹介で6月18日(火曜)に出演

翌日出演者にはこの年4月にカシオペアと国技館でコラボした村田香織を紹介



●ライブで再現された『SWEET SPHERE』の曲たち

制作当時はライブでの再現性を考えていなかった『SWEET SPHERE』ではあるけれど、3拍子ファンクの「BRIGHT TIMES」と“透かし絵”といった意味を持たせた「TRANCEPARENCY」は1987年のオットットリオのライブで初めて再現される。1990年代には野呂が出演するセッションで両曲ともに定番となり、2000年代以降の野呂のソロプロジェクトのライブ、LIVE ISSEIシリーズでもラインナップされ、それに加えてアルバムで唯一のフレットレスギターを使ったタイトル曲「SWEET SPHERE “a light blue lullabye”」も初めて披露された。また、ヴォーカル曲「THE MESSAGE IN THE NIGHT」は1997年に六本木ピットインで都合3回行われた楠木勇有行(当時・楠木達士)とのコラボレーション・ライブ、KUSUNOKI BANDで披露されていた。これがまた、アルバム収録のフィリップ・イングラムと楠木の声がそっくりで驚いた覚えがある。



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1回目と2回目は、楠木・野呂とも面識がある青木智仁のルートでほぼ角松敏生バンドがバックに

3回目は、当時のスクエアのリズム隊に野呂とはともにアマチュア時代からの知古の久米大作がバックに