文書かいてますか?
皆さんは、どのくらいの頻度で自身の考えを文書にする機会があるだろうか?ちなみに私の場合、このブログを除いて自身の考えを綴る機会はあまりない。
私は最近、司馬遼太郎氏の歴史小説『竜馬がゆく』を読んでいる。読んでいるといっても、まだ読み始めたばかりで、現在は第4巻。全巻読破には至っていない。坂本竜馬といえば、日本史において屈指の英雄である。
しかし、この坂本竜馬、実は司馬氏が新聞にて『竜馬がゆく』を連載するまで、限りなく無名な人物であったという。司馬氏が連載を始めて以来、知名度が飛躍的に伸び、現在の人気に至ったという。つまり、日本人は司馬遼太郎の描いた坂本竜馬が大好きなのである。
司馬氏はその「精密な歴史観」や「読者が目の前でその情景を見ているかのように感じる表現力」で有名である。現在では司馬氏を研究する学者も多数いるという。
この『竜馬がゆく』を読む中で、多く感じることが、その文献の多さである。文献といっても、歴史を大きく動かした公文書のことではない。むしろ各人物がが、実際に家族や友人に送った私文書が多く抜粋されているのである。これは司馬氏が相当のフィールドワークを行った証拠でもある。抜粋からは、各人物の人柄や思想がにじみ出ており、それが司馬氏の表現力が相まって、人物像が驚くほどリアルなのである。
多くの大企業の経営者が司馬遼太郎氏の本を読み、リーダーシップを学ぶというのがわかる。
しかし、見方を変えれば、このように司馬氏がリアルな小説を書くことが出来たのも、歴史上の人物が、後世に書き物を残していたからである。後世の者に、意図的に文書を読んでもらおうとして書いた文書でなかったにせよ、自身の生き方や思想は何かしらの形で明文化していた。将来が見えにくかった幕末において、真意を文書にしておくことは、不可欠であったのかもしれない。
では、現在、私たちの生活においてそれはどうだろうか?いつ何時でも簡単に他人と連絡が取れてしまう。医療も発達し、ある程度自分の生命に対する関心感もある。私自身も含め、ほとんどの人が死の予感など持っていない。したがって、自身の真意を明文化してみる機会などほとんどないように思う。従って、突然、死が訪れても、その人間が普段どんな考えのもとに生きていたか(生き様)が、家族や親友を除くほとんどの人に理解してもらえない。これは少しさびしいように思う。
話の例がかなり極端になってしまったが、何も遺書を書くつもりで文書を書けと申し上げているわけではない。ただ、文書を書くことで自分が何を考えているのか自分自身でも整理がつく。また、起・承・転・結さえしっかり捉えながら書けば、自身がその問題に対してどんな結論を持っているのかも明確になる。また、人と接する上である程度自分らしさ(自分の考え)を持っていた方が、人間的にも信頼のおける人間でいられるように思う。
従って、時代を問わず自身の考えを文書にしてみる機会というものを定期的に持ってみることは、より人生、また後世の充実につながるのではないかと考える。