年末に「ガキの使いやあらへんで 笑ってはいけないシリーズ アメリカンポリス編」が放送された。日常は、山崎方正で笑う事など皆無であるが、この番組だけは、山ちゃんに笑わせられるというか、笑える状況を満喫するのである。
昨年は、恒例のプロレスラー蝶野によるビンタへの仕込みが綿密だった。日野皓正が音楽指導で中学生にビンタした是非の件で、週刊Fridayにインタビューを受けた蝶野は、「今年は、ガキの使いからオファーがあってもビンタしません」とキッパリとビンタ行使を紙面で否定していたのである。番組の最初の場面で、その雑誌の件が触れられ、得意気に「今年はビンタ、あらへんねん。蝶野さん、そう言うてはったし」と語る山ちゃん。しかし、今回も、犠牲者は松本人志に設定されたように見せかけて、やっぱり山ちゃんだった。思い切りビンタされて笑った。やはり、芸人山崎邦正が一番輝く瞬間はこれしかないのだ。
そして年が明けて、ガキの使い演出について否定的意見が出されているのである。まずは、エディーマーフィーを模した浜田雅功の扮装が人種差別でないかと物議を醸している。私自身は、個人的には、あの扮装はアリだと思うが、世の中の流れでクレームは大丈夫かなと視聴していて少しハラハラしたのは事実である。なぜ個人的にあの扮装がありなのか?それは、あの脈絡から大ヒットした映画の主演だったエディーマーフィーへのリスペクトはあったけれど、差別的ニュアンスを全く感じなかったからだ。大ヒット映画の主演者を真似ただけであって、たまたま主演のエディーがアフリカ系だったという事実に過ぎないのである。まぁ、一視聴者の私でさえ、後々のクレームまで心配したのだから、製作者もその辺りは敏感になるべきではなかったかとは思う。西部警察や太陽にほえろなど警察ドラマはいくらでもあった訳だから、クレームのリスクを考えたら回避すべきだったろう。「黒人=差別」という図式で弄るのはもうやめた方が良くないか?スポーツ、音楽、ファッション、ダンス、そしてオバマ大統領に代表されるインテリジェンスなど多方面で活躍するアフリカ系に対して、多くの現役高校生は、アフリカ系に対する憧れはあっても、差別的感情は皆無とは言い切れないが、自称人権派の大人より、断然ボーダーレスであり、交流会ではあっと言う間に、肌の色など関係なく交友関係を築けるのだ。
またビンタの問題も、ベッキーのタイキックの件も然りである。山ちゃんとベッキーが拒むのを無理やりしたのなら犯罪である。しかし、二人とも無理やりの体で、事務所、本人了解し、契約の元、行われているものであり、その背景には、私たち庶民が手にする事が出来ないほどの高額なギャランティーを発生させているのである。しかも不倫騒動以降、テレビの露出が激減したベッキーにとっては、「おいしい禊」として、笑いに昇華させる必要があったのだ。だから、ベッキーに関しては、視聴者が笑ってあげないと、ベッキーはテレビ業界へ戻って来れないのだ。
言論の自由の民主主義だから、1つの事柄に対して色んな意見があって当然だ。しかし、演じている当人の意向も考えず、自分たちの意見だけを正論とする幼稚な「原理主義」が人間社会を偏狭なものとし、人間を生きづらくしているようだ。どんなに良い意見も正論も幼稚な「原理主義」になっては、他を容認しない危険な社会となる。欧米の社会の祖先は、相手を容認すれば自分たちが支配される狩猟民族の歴史や文化を持っているから仕方ない。しかし、ここ日本は、古来から多様な神様を信仰し、他者との和を重んじて共同で稲作をする農耕民族の歴史を持っているではないか。グローバル社会とは言え、西洋から持ち込まれた「原理主義」に飲み込まれず、日本社会の美徳である他者を尊重する寛容さを失わず、成熟した民主主義を維持できる世界で稀な国として次世代へ繋げたいものである。もちろん差別は許されないが、「笑ってはいけない」がバカバカしさを容認する寛容な社会かどうかの試金石となりうるかも知れない。