金曜ロンドンハーツは、カズレーザーの正体を暴くための隠し撮りシリーズと今まで撮りだめしていた「奇跡の一枚」の各部門大賞発表だった。
カズレーザーの隠し撮りは様々な場面でなされた。タクシー内では、仕込みの運転手さんに色んな話を振られても、包み隠さず正直に話すカズレーザー。居酒屋では個室ではなく、普通の客席で飲み、仕込みのサラリーマンや学生から「一緒に飲みましょう」と誘われ、あっさりOKした。さらには、相手が話しやすいように話を振ったり、動画や写真撮影に快く応じ、学生のグループと飲んだ際には、会計を一緒に済ませてやった。(社会人の場合は、社会人の方が払うという設定だった)また、事務所の先輩の髭男爵ひぐち君が借金の申し入れをすると、その理由も聞かず、快く、自分の預金残高を明かし、自分に必要となるかもしれない預金残高の1割を残し、9割を貸すと即答した。デーブ・スペクターが楽屋に送り込まれた際には、あのウザいジョークにいちいち反応して話を聞く。中尾彬の訪問に対しては、芸能界の大先輩に敬意を払って、言葉遣い、お辞儀、話を聞く態度、どれをとっても完璧だった。以上のシリーズを見ると、カズレーザーは、人に媚びることもなく、組織に縛られることなく、まさしく自由人であると同時に、おそらく良い家庭できちんと躾を受けた一般常識も兼ね備えた人だった。
カズレーザーの魅力は、組織の歯車として働かざるを得ない人(社会人のほとんど)から見ると本当に憧れの生き方なのだ。なんのしがらみにも左右されず、周囲の評価を気にせず、爽やかに自由に生きてみたい。それを、笑いの才能と先天的変人ぶりで体現しているのがカズレーザーなのだ。
しかし・・・そこまでテレビで暴く必要性があったのだろうか。私たち視聴者は、カズレーザーを見ていて、変人だが、その言動で視聴者に不快感を与えることは皆無である。物事を冷静に、かつ公平に見ている人物だと評価している。視聴者が不快にならない時点で、彼のバックグラウンド(家庭での躾や学校教育)が透けて見えるのである。だから、楽屋での神対応をわざわざ見たくなかった。「そんな人じゃないかな・・・」と視聴者に想像させるのもテレビの役割だ。番組の中で、他の芸能人が「カズレーザーが素なのかキャラクターなのか知りたい」と言っていた。情報化社会の中で「素」が重視される昨今であるが、私は、テレビに出る人は、テレビの上だけ評価する。「素」はネットに任せる。だからいちいち「素」と「キャラクター」とかいう風潮をテレビ業界全体で無くすべきだ。楽屋裏を見せるなと言いたい。中には、〇〇なキャラクターで売っていくとかいう低俗なC級アイドルがいるが、日本人が古来から大切にしてきた「自称しない慎み深さ」を大切にしてほしい。「身もふたもない」という言葉が最近のテレビを端的に形容していると思う。今回の企画をヌードに例えると「ヘアヌード」である。カズレーザーには、もう少しの間は、神秘的でいて欲しかった。
さて、その企画の合間合間に、ダレノガレ明美が「すご~い」というカットが入っていた。彼女は、以前の企画で、カズレーザーがイイ女の中に名前を挙げていた人物だ。ダレノガレ明美は、一般人男性と破局したらしい。次の標的は、ずばり「カズレーザー」にロックオンしたようだった。
でも敢えて言おう。カズレーザーは、ダレノガレを選ぶのはダサいと思っていると思う。