サボんじゃねえ!

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俺たちの知らない松岡修造フルコース

「お待たせしました。チキンカツカレーの中辛です」

そう言うと店員は、自分の前にカレーが盛られた皿を置いた。それまで読んでいた漫画を読むのを止めて、私はスプーンを手に取った。食欲をそそるいい匂いがする。
手を合わせ、食事を始めようとした瞬間、ガシャンと背後で大きな音がしてスプーンを取り落としそうになった。店員が食器でも落としたのかと思ったが、それに続いて聞こえてきたのは男の罵声と、勢いよく椅子が倒れる音だった。
思わず振り返ると、テーブル席の前に方で息をしながら仁王立ちする男がいた。おそらく立ったときの勢いで倒したであろう椅子と、床にぶちまけられたカレー皿とその中身があった。皿に盛られている状態とは違い、床に撒かれたカレーは食欲をひどく減衰させた。

「どういう神経してるんだ?片手で漫画読みながらカレー食う奴がいるかよ!」

男は激昂していた。昼休みだろう、スーツに身を包んだ若い男性に向かって、唾を飛ばさんばかりに吠えていた。会社員の方はきょとんとしている。


自宅の近所にあるこのカレー屋を見つけたのは、今から半年くらい前のことだ。特別美味しいわけではないが、値段に見合った量があり味も悪くはないので、とりあえずの選択肢として重宝している。
カレーは平凡でコスパが良い、特に目立つところのないカレー屋だが、他のカレー屋にはない特徴がある。それは漫画だ。
この店、漫画の量が尋常ではないのである。壁一面に作られた本棚には、漫画がビッシリと収められている。軽く数百冊はあるだろう。他の飲食店でも漫画や新聞が置いてある店はあるが、明らかに比べ物にならない規模で漫画が用意されているのだ。
そのせいか、客のほとんどは待ち時間や食事中に漫画を読んでいる。これを目当ての一つとして通っている客も少なくないだろう。かくいう自分もその客のうちの一人で、最近は来るたびに麻雀漫画の続きを本棚から手に取って、食事が出てくるまでの時間を潰している。

「カレー食いながら漫画読んで、万が一漫画が汚れたらどうする!?店の物だぞ、お前責任取れるのかよ!おい!」
「え、あの」
「第一、漫画片手に飯食うなんて作った人に失礼だと思わないのか?お前自分で作った飯を漫画読みながら食われたらどんな気持ちになるか、考えたことないのか?どんな育ち方したら平気でそんなことできるんだ!」

男はなおも怒り狂っていた。つまるところ、漫画を読みながら飯を食っているのが気に食わないらしい。怒号を浴びていた会社員も最初はきょとんとしていたが、男の主張がわかり始めると次第に表情は素に戻り、そして険しくなっていった。なんで俺だけそんなこと言われなきゃならないんだ、とでも言いたげである。
ふと周りを見ると、男の後方の席では、ガタイのいい強面の男が蒼天の拳を読みながら、我関せずといった雰囲気で食事を続けていた。怒りの矛先が会社員の方に向いている理由を知った気がして、少し情けなさを感じてしまった。

「あのさ、お兄さん」

会社員の方が口を開いた。状況を整理できたのか、表情は落ち着いている。

「ここはそういう店なんだよ」

男はぐっと唾を飲んで、何か言い返そうとしたが、それを会社員は身振りで制して、言葉を続けた。

「気持ちとしてはさ、言ってることわかるよ。でもこの場、この店においては、それって本当に正しいか?」

男は一歩下がった。周りの客も耳を傾けているのが空気でわかる。言い返す言葉が出てこないのを確認して、会社員は続ける。

「まずさ、漫画が汚れるって言うけど、それって店側の都合だよね?店として漫画が汚されるのが嫌なら、本棚に『食事中に読むのはご遠慮ください』みたいに張り紙でもすればいいんだよ。口頭で注意するでもいい。それが無いってことは店側も暗黙の了解で認めてるってわけ。昨日今日始まったことじゃないし、そもそもこの漫画は店が用意してくれてるものなんだし、それを取り扱うルールを決めるのは店側だよ。
 それで、漫画読みながらカレーを食べるのも同じ理由だと思うんだよね。店側が看過できないってんなら注意するなり禁止するなり、ルールを設ければいい。周り見てわかんないかな」

会社員はくるっと店全体を見回す振りをした。ほとんどの客が席に漫画を持ってきており、読みながら食べている客も半数ほどいる。そのことに男もしっかりと気付く。

「だから、なんて言うのかな。ここはそういう店であって、この店にとってこれは『普通』の光景なんだよ。これに不満を抱くのはただのあなたの感想であって、僕を非難する理由にはならないと思うよ。
 かといって、あなたの意見が間違っているとは私は思いませんよ。ただ単に、あなたはこの店の客にふさわしくない。それだけのことだと思いますけど」

会社員は一通り喋り終えると、自分の席に座りなおして水を飲んだ。割り込めずにおたおたしていた店員がようやく間に入ることができて、床の片づけを始めている。男は動けずに下を向いていた。

「アンタ」

男の背中がビクッと反応した。声はカウンターの方から響いてきた。見ると、店主がカウンターから顔をのぞかせている。

「悪いけど、帰ってくんねえか。もう来ないでくれ」

なんとか顔を上げて店主の方を見た男は、すぐに下を向き、小声で何か言ったあと、自分の荷物を持って店を出て行った。
チリンチリンというドアのベルが鳴りやんだところで、店全体が一斉に溜息をついたような緩みがあった。私もようやく自分の食事を再開した。


「俺は間違ってねえだろ」

男は店を出る前に、小声でそう言っていた。

カレーは出てきたときより冷めていて、ご飯もべちゃっとしてしまい、チキンカツの衣もへたへたになっていた。
スプーンですくって一口食べると、いつもと変わらない、特別美味しいわけでもない、普通のカレーの味がした。