朝の勤行です。

(白過ぎる日本人僧侶)
お教本は2冊
タイ語で書いて有ります。
全く読めませんが
前に座って居る兄弟子が親切です。
「今ここだよ」
と教えてくれます。
が
マッタクわかりません
30分の勤行が終わったら
少年僧侶達は疲れ果ててます
僧侶一同は
在家者の方々へ向き直り
住職さんが説教を始めます。
スミマセンが
何故か
ふてぶてしい顔で写ってしまいました。
その後
道場に移動して
「座る瞑想」
「歩く瞑想」
を行います。
この瞑想が
僧侶の一番大切な修行に成ります。
「ヴィパッサナー瞑想」
自分の為だけの時間
を体験します。
ヴィパッサナー瞑想は
「自分の観察」に焦点を当てます。
無言・無音の中で
胡座をかいていると
身体と心の変化
足の痛み
痺れ
痒み
が現れます。
痛み痒みを感じたら
反応せず
「痛い」
「痒い」
と思った所と心に焦点を当て
それを観察します。
観察を続けると
痛いと思っていた
痺れたと思っていた
痒いと思っていた
と
変化します。
また
その変化が終わると
頭の中に色々な感情が巡ります。
感情が出て来たら
その感情に焦点を当て
観察します。
そして
観察を続けます。
やがてその感情も
変化して無くなります。
「歩く瞑想」は
もっと分かりやすいと思います。
自分の
身体や心・感情に変化が無ければ足を動かします。
何かしら
身体や心・感情が起きて来たら
歩みを止め
自分を観察します。
それが収まるまで
観察を続けます。
そして
変化し「無」の状態に成ったら
また
歩み始めます。
自分から起きた
気持ち・感情・変化
全て
そのまま受け入れて
全て観察します。
「ココロ」とは
コロコロ変わる物
だから
「ココロ」。
変化の無い物は無い
この世は
諸行無常。
これを体験していきます。
夕方の勤行が終わったら
また道場へ向かい
瞑想を続けます。
僧侶は
1日の殆どの時間を
瞑想で過ごします。
そして
1日の終わりに
チャーン・チャイ大長老の説教が
優しく
厳かに
ゆっくりと始まります。
僧侶の1日は
殆ど労働は有りません。
しかし
自分の過去や体験を
1つ1つ紐解いて行く事
それは
物凄く疲れます。
この後
床に着くのですが
泥の様に寝てしまいます。
感情に左右される事
感情そのものが
肉体労働だと言う事が実感出来ると思います。
だから人は
この
ヴィパッサナー瞑想を「苦行」と言うのかもしれませんし
悟る事を
苦痛に感じるのかも知れません。
しかし
全ての問題も
全ての答えも
既に
全て自分の中に存在してます。
自分を
誤魔化さず
自分の中に有る
本物の自分に
「気付いて」行く
小さな自分への
「気付き」
これが
人生最大のテーマでは
ないのでしょうか。
(つづく)



