先日、新聞かネット記事か忘れましたが、角田光代さんのコラムを読みました(かくたさん←「八日目の蝉」とか「対岸の彼女」とか書かれてる作家さん)

“最近、猫を飼いはじめて、猫がヒトの言葉を理解するだけじゃなくて、話しもするのに気がついた”、、というようなお話。

猫でも犬でも、飼っている方は、ごく自然に共感できると思うのですけど、別に、猫が「おーぃ もしもし」と声に出して話す訳じゃなくても(^^;;

「おなか減ったーごはんー」とかの簡単なのだけじゃなくて、ひっくり返ったりジーと見つめたり仕草を工夫したり、で、

たいへんだねぇ
とか、

お仕事がんばって
とか、

もう寝ようよ、
とか。




そういうことを伝えてくる。
人間のコトバにしようとするから翻訳できないのであって、猫は、そのぜんぶをまぜこぜにした「あー もぅ...」というような、気分を伝えている。
それで、実は、こういう『気分』のほうが『言葉』より先にあるんだよな、ということを思い出した。
言葉からこぼれ落ちる感情は、実際はたくさんある...。


というようなコラムでした。

     *

ほんとにねー
なんというか、Yちゃんと一緒にいて。
嬉しかったり、ホッとしたり、泣きなくなったり、せつなかったり、居てくれることそのものが感激だったり、にゃぁにゃぁ言いたくなったり、よろこびだったり、袖を引っ張りたくなったり、くっついていたかったり、、そういういっさいがっさいを伝えるために「だいすき」とか「あいしてる」とかの言葉を使うのだけど、、、ほんと想いの一部分しか翻訳できない。
ことばにならない、むーむーというような、つぶやきのほうが気持ちに近かったり(伝わってナンボですけど、伝わってると確信できるような... (^^;;

言葉が先じゃなくて、溢れる感情があって、それを言葉に置き換えてるんだよなぁ、と思う。


猫もそうだけど、と角田さんも書いているのですけど、、「言葉」ではなくて、そういう膨大な「想い」をやり取りするような、そういう会話が成立する場面があるんだろうなと思います。

(別に、ハイコンテクストの日本文化ならでは、ということでもなく)
お互いに(行間の)想いが伝わっていると、「大好きだよ♡」という一言でも安心感が違うなぁ...と、最近とみに思うのです。
めちゃ大好きなんです(^-^)


結局、今日もノロケてしまいました(^^;;

(๑´•.̫ • `๑)