こんばんは、ゴージャス松野です!

今日は、曹洞宗第三教区並びに同護持会主催の『平成29年度禅のつどい』が開催されました。

『禅のつどい』は教区内の寺院の檀信徒の皆さんの講習会で、坐禅や梅花流を体験したり、御講話を拝聴したりする第三教区の恒例行事です。 

会場となった福島県伊達市伏黒・光臺寺には、朝早くから各寺院のご住職、僧侶、壇信徒の皆さんが多数お集まりになりました。 

午前8時50分・・・仏祖諷経(参加者全員で般若心経をお唱え)の後、教区長と教区護寺会長のご挨拶が有り、『禅のつどい』は開講となりました。

開講式に続いて、本日の『禅のつどい』の第一日課として、教区布教部員による坐禅指導が行われました。

まず最初に、担当の布教部員から坐禅の作法や、坐禅の心構え等について説明があり、その後、参加した皆さんは、坐布や椅子を使って実際に坐禅を体験されました。

坐禅の始まりを告げる止静鐘が鳴らされると、会場内は、張り詰めた空気と静寂に包まれ、参加した皆さんは、慣れないながらも真摯な気持ちで、懸命に坐禅に取り組んでおりました。

曹洞禅宗の坐禅は、目的や意味を求めずに、ただひたすら集中して坐禅に打ち込む『只管打坐』がその流儀とされています。

今日は、時間の都合上約20分の坐禅でしたが、坐禅終了を告げる放禅鐘が鳴った時の皆さんの顔が、穏やかで、かつ、清々しさに満ち溢れていたのがとても印象的でした。 

坐禅指導の後は、『梅花流詠讃歌のすすめ』の時間となりました。 

詠讃歌とはお釈迦様と両祖様を讃え、ご先祖様を敬う心を唱える歌のことで、曹洞宗では特に梅花流と呼ばれています。 

詠賛歌のメロディは、日本の風土と暮らしの中で生まれた旋律で、優しく穏やかで唱えやすい特徴が有るということです。

布教部員によって梅花や法具の説明が行われた後、今日は、ご聖号と梅花流創立65周年記念奉讃大会で発表された、南こうせつ氏による梅花流の新曲「澄みわたる空」を、参加者全員でお唱え(唄わせて)させて頂きました。

実際に詠讚歌を口ずさんでみると、旋律が唄いやすく心に染み入る歌であることが良く理解出来ました。

そして、本日の『禅のつどい』の最後は、西白河郡泉崎村・昌建寺ご住職の秋央文師によるご法話が行われました。

央文師は、昌建寺でご住職の職に就かれる傍ら、曹洞宗総合研究センター・現代教学研究部門委託研究員としてご活躍中です。

講話の演題は『お酒は楽しく飲みましょう!』〜実はまじめな『供養』と『生き方』と『仏教』の話〜

『お酒は楽しく飲みましょう!』という演題に、参加者の皆さんは興味津々・・・演題にたどり着くまでに、まず央文師は「仏教」について、二つの観点からご自分の体験談を交えながら分かりやすくお話になられました。

その一つ目は、『故人への供養としての仏教(葬式仏教)』、そして二つ目は、『生きる知恵としての仏教』でした。

央文師は、両者とも般若心経の『色即是空・空即是色』の一節を例えにお話を進められました。

「供養としての仏教」においては、『色』イコール生きている肉体や存在そのもの、そして『空』イコール死(空虚)という解釈の元に、ものの見方や考え方によって人の『死』というものは、その捉え方が変わってくるものであり、遺族の気持ちのあり方によって火葬や葬儀が単に「死体」の処理に終わるか、「遺体」の供養になるかが決まってくるということでした。

ご自身の経験談として、『故人が火葬で熱さを感じないようにお経を上げて下さい』と懇願する遺族を目の当たりにして、遺族の気持ちを慮り、寄り添う為にも葬式仏教は大切であると痛感されたということでした。

遺族が亡くなった故人を思い出す時は、誰もが火葬で焼かれたお骨を思い出すのではなく、生前生きていた姿を思い出すもので、形(肉体)あるものは空になったけれども、形(肉体)は空になっても、心の中には色(生前の姿)として存在する、つまりは『色即是空・空即是色』に繋がるということでした。

そして、二つ目の「生きる知恵としての仏教」においては、『一水四見』というお経の一節を例えに、同じ『水』でも、それを見る人によって見え方は様々である・・・つまりは、水そのものの存在は変わらなくても(色)、見え方は様々(空)であり、悲しみや苦しみもこれと同様で、悲しみや苦しみは現実としては存在するけれど(色)、悲しみや苦しみ自体には絶対的な尺度は存在するものではなく(空)、全てはそれを受ける側の状況や感じ方によって変わるものであるということでした。

生きていく上で、人と人との交わりや、人と出来事との背景には、その全てに仏教的なご縁(縁起)が存在する訳で、良い縁起を作る為には、自分の状態や心を常々整えることが必要で、それこそが『生きる知恵としての仏教』の真髄であるということでした。

転じて、お酒もどんなに上等で美味しいお酒でも、それを飲む人の体調や状態によっては不味くなってしまうので、『美味しいお酒をいつも美味しく飲めるように、常に自分を律して良い縁起を作りましょう』という言葉でご法話は締められました。

仏道の末端を歩ませて頂いている私も、今回の央文師の有難いご法話を拝聴させて頂き、今まで自分の中に有った迷いがまた一つ吹っ切れたような気が致しました。

今日は、『禅つどい』で大変有意義な時間を過ごさせて頂きました。

覚念行秀   合掌