お酒飲みますよね?
とよく聞かれるけど、本当に飲めない。一滴でも飲むと体調次第では命に関わるので、絶対に口にしない。
だから毎日の電車で見るビールの広告や、居酒屋やスナックの電照を見ても正直無反応。ガールズバーの客引きにもなびかない。それらがトリガーになってさて今日は飲むかとならない。最近ありがたいのがノンアルコール飲料の充実で、特に果汁の割合が高いワイン風の飲料がお気に入りである。
飲まないことは「どう?一杯」という誘いを躊躇なく断ることが出来る。こいつのことはあまり好きじゃないけど、お酒を飲みたい気分だからしょうがない飲みに行くかという感覚がない。そして行きつけの店を持たない。常連客とも繋がらない。だから年齢の割に人間関係が薄く、坊やだなぁと思う。バーやスナックで化学反応のように起こる出会いが生まれないことは、ぼくにとって不幸なのかそれとも幸いなのか。
コロナの前に仕事の関係者と会う度に通って、実際常連になりかけた店もあるのだけど、お酒を飲めないと些細な面倒ごとが壁になる。定期券の区間が変わったからもう行かないなんてことが普通にある。数百円の交通費がもったいない(それでジュースが数本買えるのである)。
人間関係も面倒くさい。常連客と濃い店主のキャラクター。それが店の売りとなることもあるけど、鼻についたらもうおしまいだ。
だって、ねこを愛でながら家に帰ってノンアルコール飲料飲めばいいんだもん。
不思議なのだが、ぬれ落ち葉のようにその店に通い続ける理由は何だったのだろう。明らかに店の雰囲気がおかしい。お客さまと主人が主従逆転している。なぜ延々と主人の自慢話を聞きながら、その客はいちいち頷きハイボールを飲んでいたのだろう。素面で見ていると、店の主人は明らかにその客をバカにしていて、ネタにして悪しざまにいじり他の常連客がそれを見て笑っていた。もちろん苦労も多いのだろうが、この瞬間は実にいい商売だなと皮肉に思ったのだ。そのハイボールは他の店でも飲める銘柄ではないのだろうか。
その場を失うのが怖いのだろうか。飛び出せばいいじゃないか。他の店に行けばいいじゃないか。不思議とその常連客はいつもその店にいて、酔いの増した主人からの罵倒にも近いようなことばにもエヘヘと笑っていた。
コロナをきっかけにぼくはその店に行かなくなった。転職したので最寄り駅ではなくなったからだ。店のグループLINEも脱退した。今日もたぶん(潰れていなければ)、主人は波乱万丈に満ちた自分の人生を朗々と語っているのだろうか。
それもコミュニケーションのひとつのかたちなのかも知れない。だがそれはまるでひとつの宗教団体のようだった。教祖たる店の主人のことばを信者がひたすら拝聴するような。否定は許されない。ぼくはむずむずと、帰るタイミングを探していた。もしかするとバーやスナックというのは、ひとつの宗教施設なのかしらとも思う。
夜の京都を歩いた時に、路地の端にも塚やまた寺があることに驚いたのだが、今思えば何も驚くことはない。東京の路地から塚や寺の姿は消えても、説教や困りごとをする和尚さんがいなくなっても、東京には酒という潤滑油と主人と共にバーやスナックという塚や寺があるのだ。
夜の乗り換え駅ではひらひらと、手を振りながらガールズバーの店員が客を引いていた。