私の傍らの床の上にはうずたかく本が積み上げられており、暗がりの中でも一番上に置かれているのは聖書だと分かった。黒い革の表紙は乾燥して剥がれかけており、私が触るとその破片がはがれ落ちた。

 イエスは泣いた(Jesus wept)。私はそれはヨハネ伝の一節だと思っていた。私は床にしゃがんで薄暗い明かりを頼りにして、その聖書のなかで最も短い節を探し出そうとした。

 彼は庭園で泣いたのだろうか? ゴルゴタの丘の十字架の上でだったか? いや、違った…それはヨハネ伝には無かった。私は他の部分を探し始めた。マタイ、マルコ、ルカ。しかしそこにも”イエスは泣いた”は見つからなかった。”Play it again, Sam”がカサブランカの劇中の台詞ではないように、”Jesus wept”は実際には聖書には書かれていないのかもしれなかったが、私は聖書に騙された気がした。聖書に救いを求めて、何も答えを得ることが出来ないなんて。

 そして私は”Jesus wept”を見つけたのだ。二つの単語の後にはピリオドが杭のように打ち込まれていた。それはヨハネ伝の、私が思っていたよりもずっと前の方にあった。イエスはラザロの墓の前で泣いたのだ、彼を蘇らせる前に。イエスは彼を愛していた故に泣いたのだ。そして彼を死から蘇らせたのだ。

 私はイエスが自分の苦しみのために、そして物事が彼の願うように進まなかったために泣いたのだと思っていたことを、少し恥ずかしく思った。彼は他者のために泣いたのだった。

 聖書を閉じようとしたとき、見返しに献辞が記されていることに気がついた。


 

 ルチル・ギネヴィア・ホックへ、

   彼女の最初の聖体拝領の日にこれを贈る  

 セント・サビーナ教会の信徒より

  190656  

  

 私は神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える  

 あなたはわたしのまぶたを支えて閉じさせず、私は物言うこともできないほど悩む

 

                                 -詩篇77:3ー4



 私は聖書を本の山の上に戻した。そして誰かが部屋に居ることに気がついた。私は静かに立ち上がってタンスの陰から覗いた。

 ドアの処に人影が立っていて、ごた混ぜになった部屋の中を窺っていた。女性だった。彼女はゆっくりと、おずおずと目が不自由な人のように部屋に入ってきた。自分を守るかのように腕を胸の前で組んでいた。彼女が窓に近づくと、ラインハルト夫人であることが分かった。私はタンスの陰から歩み出て、小さな声で彼女の名を呼んだ。

 彼女は立ち止まって私の方を見た。「誰なの?」彼女は尋ねた。

 私は彼女に歩み寄って、「僕です。アレクサンダー・フォックスです」と言った。

 「ミスター・フォックス!」彼女は叫んだ。「あなたはここで、一体何をしているの?」

 「隠れていたんです」私は言った。

 「隠れる?誰から?」

 「警察から」

 「警察? どうしたというの?」

 「彼らは僕が殺人犯だと思っているのです」

 彼女はしばらく何も言わなかった。彼女はそこに立ったままでいた。「人生とは何て奇妙なものなのかしら」と彼女は自分自身に向かって言うようにつぶやいた。「何と奇妙な」

 「そうですね」私は言った。「あなたはここで何を?」

 「物音が聞こえたので、私の品物の無事を確かめるために上がってきたのです」

 「これらはあなたの物なのですか?」

 「そう」彼女は言った。「直に、そうではなくなるけれど」

 「どうしてですか?」

 「競売にかけられるのです」彼女は言った。

 「全部ね。私の部屋代と食事代を払うために。だって私はスイートを失ったのですから。そして今、全てを失おうとしている」

 「なにがあったのですか?」

 「私の終身不動産権が期限切れになったのです。想像できるかしら?アンドラでの”終身”とは僅か50年の期間でしかないのよ。私がサインしたときにはこれほど長く生きるとは思ってもいなかった」

 「ではあなたは今どこに住んで居るのですか?」

 「ああ、彼らは私を通りに放り出したりはしませんでした。私にはメイドの部屋を一つくれたのよ、ここの真下のね。こぢんまりとした、心がなごむ部屋ですよ」彼女は手を伸ばしてタンスに触れ、埃の上に指を滑らせた。

 「これが長く生きたことの代償なのかしら。あなたには勧められないわね」

 私は何も言わなかった。

 「あなたはどれくらいこの屋根裏に隠れていたのかしら?」彼女は尋ねた。

 「1時間か2時間です。0時に発って、逃げるつもりでいます」

 「「何てロマンティックなんでしょう、あなたって。深夜に逃亡するなんて。どこに向かうの?」

 「フランス、だと思います」

 「ああ」ラインハルト夫人は言った。「フランス。ロマンティックだわ。私が戦前にパリに住んでいたことを知っているかしら?あそこより美しい場所はこの地球上には無いわね。パリに行くの?」

 「分かりません」私は言った。

 「もしそうしたら、私のことを思い出してね。パリに行ったら。パリにいたころの私は若くて、恋をしていました。私はパリでエルベと出会ったのです。そうね、あなたには何かを受け取ってもらわなければ。何か私の持ち物が、よそ者の手に渡るのを免れて、私の友達とともにパリに逃げることが出来たなら、それは私に大いなる喜びをもたらすでしょう」彼女は部屋中を見渡した。「何が欲しいかしら?」彼女は尋ねた。

 「何も」私は言った。「私は荷物を持っていけそうにないのです」

 「でも何かを持っていってもらわなければ」彼女は言った。「私のために、お願いだから何かを。何か小さくて身につけられるものが良いかしら」彼女はタンスの抽出しを開けて、中を探った。

 「あったわ」と彼女は言って、取り出して私に見せた。「エルベのフリーメーソンの指輪よ。これを受け取って欲しいの。あなたはメーソンかしら?」

 「いいえ」私は言った。「僕は違います」

 「もうどこにも居ないのかもしれないわね。指輪を試してみてくださる? 彼の手はとても小さかったのです、エルベの手は。少年のような、美しい手でした」

 その指輪は私の薬指には小さすぎたが、小指にはぴったりだった。威厳のある指輪で、金で出来ていてラピスラズリがはめ込まれていた。

 「いいわ」彼女は言った。「そこにつけていてね、健康と幸せを呼び寄せるために」

 「本当に、ありがとうございます」私は言った。「宝物にします」

 「受け取ってくれて嬉しいわ。他には何かないかしら?本はどう?」

 「ああ、ちょうどあなたの聖書を読んでいたところでした」私は言った。

 「私の聖書? 私が今でも聖書を持っていたとは知らなかったわ」

 「タンスの裏にありましたよ」と私は言って、聖書を持ってきた。そして彼女に見せて、献辞を読んだ。

 「ああ、そうね」彼女は言った。「私はその日のことを覚えていますよ。私は初めて、大いに落胆した日でした。母は私に、人生で一番素晴らしい日になるわよ、と言ったものでしたが。その日の最後に、私はイエスの体を食べたのです。母は天使の姿が見え、神の存在を感じられるでしょう? と言いました。そしてもちろん何も見えなかったし、感じられませんでした。私は騙され、裏切られたと思いました。それからの私は母を赦すことも信頼することもありませんでした。母には宗教的なヒステリーの傾向があったのだ、と後になって分かりました。優しくて、でも少しだけ神に恋をしすぎた女性だったのです。私の父は不可知論者でした。あなたは信心深い人なのかしら?」

 「いいえ」私は言った。「残念ながら」

 「そうであっても、あなたは良い人だわ」彼女は言った。「私の父のようにね。彼はとても善良で、優しい男性でした。フランスにいたころ、彼は朝食の前に外に出て、全ての家畜たちにお早う、と挨拶していました。毎日、どんな天気でも。彼が馬を愛したことといったら! 彼は食堂に、馬の匂いをさせたままで入ってきたのよ。私は今でもその匂いを覚えているわ。でもそれも今となっては大昔の、遠い場所の思い出ね。そうじゃない?」彼女は私を見た。

 彼女は打ちのめされているようには見えず、むしろ意気揚々としているように思えた。人生の最後にこんな仕打ちを受けるなんて、と私は思った。しかし、そうであっても威厳を保てることがどれほど素晴らしいことであるか!

 私はまだ聖書を抱えていた。

 「その聖書が気に入ったのかしら?」彼女は私に尋ねた。

 「欲しいのなら、持っていってもいいわよ」

 「いいのですか?」

 「もちろん」彼女は言った。「形見を遺すことが出来る家族が誰一人としていないって、悲しいことだわ。財産を持つということが馬鹿らしくなるわ、実際のところ。この全ての、私が愛した全ての品物が馬鹿らしく思えてしまうのよ。ホテルの人たちが、これらをここに運びあげたときに初めて、私にとってはこの品々は何の意味も無いことが分かったわ。私はほっとしたのかもしれない。これら全てとさよならしてね」彼女は彼女の品物を拒絶するような仕草をした。

 「さて、あなたが警察に追われているのなら、もう行かせてあげなければならないわね。何か必要なものは? 喉が乾いてはいない? お茶を飲むかしら? 私の部屋には電熱ポットがあるのよ」

 「いいえ、ありがとう」私は言った。

 「それでは私は、ここでお別れを言うことにしましょう」彼女は言った。「あなたにまた会えて、とても嬉しかった。幸運を、ミスター・フォックス」

 「あなたにも」私は言った。

 「そうね」彼女は言った。「これからの私の航海が速やかに、平和に過ぎ去ることを願うわ。お休みなさい」

 「お休みなさい」私は言った。私は彼女の手を握り、彼女は暗い廊下の奥へ消えていった。彼女の軽い足音が聞こえて、やがて全てが静まりかえった。ただ一つ、部屋に置かれていた彼女の死につつある400日巻時計がガラスのドームの中から響かせる、カチカチという音を除いて。





…248/263、ようやくここまで来ることが出来ました (+_+)