「ここでの市民ボランティアを始めたばかりなの」と彼女は言った。「私は治る見込みの無い子どもたちの病棟で働いていました。でもそれは…そう、聖人でもない限りずっと続けられる仕事ではないわ。少し離れる必要があると思ったんです、そして本の仕事をするのは気分を変えるのに良いんじゃないかって」
「君は査定士なのかい?」
「まさか、違うわ」彼女は言った。
「私にはそんな専門知識は無いもの。本の手入れとレストアを少しやるけど、楽しい仕事だわ。でも本を棚にしまったり記録を整理したりがほとんどね。そしてヘル・フランクにお茶を煎れたり。彼は館長なの。あなたはミス・インに会いに来たって言ったわよね?」
「そう。査定士になる試験を受ける手続きをしてもらうようにと言われたんだ」
「彼女は昼食に出かけちゃったの。そんなに長く待つことにはならないと思うんだけど。私はこの本をロタンダ(ドーム屋根のある円形の大広間)へ運ぼうとしていたところだったの。ロタンダはもう見たかしら?」
「ちらりと見上げただけだ」
彼女は私についてくるように誘い、本が山積みになった小さなカートを押して廊下へ出た。私はクァイサイドと一族の存在から離れた彼女に、興味を惹きつけられた。彼女は生き生きとして自信に満ちているように思え、ビブリオテカの暗い照明は彼女の瞳と肌に本来の美しさ -しばしば打ち負かされているように見える- を取り戻させているようだった。
私は彼女について円形のホールを横切り、小さなアルコーブに入った。彼女は骨董品の鳥かごのようなエレベーターの扉を開けるとカートを中に入れた。給仕用のエレベーターより僅かに大きいだけだったので、余裕はほとんど無かった。「あなたは階段を使った方が良さそうね」と彼女は提案した。「上で会いましょう」
私はホールを横切って戻り、階段を早足で駆け上がった。ミス・クァイが上がってきて、私はエレベーターの扉を開けて彼女がカートを出すのを手伝った。
「これは全部、最近収集された本なの」彼女は言った。「最も価値がある本は、ここに運びあげられてキャビネットに仕舞われて、鍵がかけられる。ここに仕舞われた本は交換されることはないのよ」
私はキャビネットに収められた本を一瞥したが、それらはこのような丁重な扱いを受けるにふさわしい価値を持っているようだった。それらのほとんどは極めて希少な本で、耳付きの紙を革紐で綴じて製本されていた。
私は、私が初めて本が絵画と同じく唯一無二ではないことを知ったときのことを思い出していた。誕生日のパーティーに招かれたときに、その子が誕生日のプレゼントとして本を贈られたのだが、その本は私のものだったのだ。それは私の本棚にあったはずで、だから私はその本を返すように主張した。その子の母親は、世の中には同じ本が沢山存在することを恩着せがましく私に説明しようとしたが、私は断固として聞く耳を持たなかった。しかし読み書きもろくに出来ない息子へ私の本を与えるために嘘をつき通そうとする彼女の意志の強さは私を驚かせ、言い負かしたのだ。
そして家に帰った私は、本棚の、まさにそれがあるべき場所にその本が戻っているのを見つけたのだ。何らかの奇跡が起きたのだ、と私は思った。彼女の恥ずべき嘘が原因となって、私の本があの呪われた家を出て戻って来たのだと。まるで迷子になった動物が次の飼い主に不当な扱いを受け、あるいは愛してもらうことが出来ず、荒野を横切る信じ難い旅をして元の飼い主の処へ戻るように。
これであなたにも、いかに私が小さな子供の頃から愚鈍なほどの本好きだったか、分かっていただけるだろう。
ミス・クァイと私はバルコニーを一周した。私はカートを押し、彼女は鍵を開けてはキャビネットに本を埋葬したのだ。
「私たち、クァイサイドであなたをお待ちしてたのよ」ミス・クァイが言った。「また来ますって約束したでしょう。あなたはずっと、何をしていたの?」
「これと言って何も」私は言った。「それが僕がビブリオテカに居る理由さ。時間をもっと有効に使いたくてね。試験に受かると良いんだけど。そうしたら君と一緒に働くことが出来る。楽しみだな」
「あら、私に会うことはほとんど無いわよ。査定士は自分たち以外の人たちを見下すもの」
「僕はそんなことはしない」
「どうかしら」
それぞれの大きなキャビネットの間にはドーマー窓が設けられていて、天井ドームの根元から外へと伸び出ていた。近くの窓を覗き込むと、ビブリオテカの真後ろにある、壁に囲まれた庭園が見えた。中央には噴水があり、花をつけた木々が並ぶ狭い小路が4つあり、それぞれは敷地の角から噴水へと向かっていた。「あれは何?」と私は窓の外を指差しながら尋ねた。
ミス・クァイは近寄り「ああ」と言った。「あれは戦没者記念公園よ。クロウ氏がスペイン市民戦争に出征して戦死した息子の名誉を後世に遺すために造ったのよ、5人の協賛者とともに。私はよくあそこで座って過ごすの。ラ・プラタでもっとも静かな場所の一つね」
「美しいな」私は言った。
「見てみたい?」彼女は言った。「つまり、あそこに行ってみたいかしら?」
「今かい?」私は聞き返した。
「そう、今」
「君は仕事中では?」
「あら、休憩をとっても良いことになっているもの。市民ボランティアの特典の一つね。あそこに行って、少し座って休みましょうよ」
彼女はカートをバルコニーに置き去りにし、そして私たちは階段を下りて、本で一杯の薄暗い部屋の一つを通り抜けた。彼女は重いビロードのカーテンを押しのけると隠されていたフレンチドアを開き、私たちは静かな庭園に出た。
私たちは木々の枝に覆われた小路の一つを噴水に向かって歩いた。六角形の噴水の池の中央にはブロンズの天使が脛まで水に浸かって立っていた。天使は壺を抱えていて、そこからゆっくりと注がれる水が池を満たし、六角形の台座の壁を流れ落ちていた。
近くまで来ると、台座の6つの側面には名前が刻み込まれていることに気付いた。流れ落ち続ける水の膜を通してそれぞれの名前を読むことが出来た。
私たちの正面に彫られていた名前はガイ・カールトン・クロウ(1910-1936)だった。「これがクロウ氏の息子」彼女は言った。「母は若い頃、彼を愛していたの。私は彼がスペインから母に書いて寄越した手紙の束を見たことがあるの。二人とも美しい若者だったのよ、あなたは想像出来ないでしょうね、それともあなたなら出来るかしら? 分からないけど。その手紙を見て私はとても悲しくなった。私の父が彼女にそんな手紙を書くことは想像することも出来ないけれど」
「お互いを愛していなかったの?」
「愛していたと思うわ、最初は。私にはそう感じられなかったけど」ミス・クァイは言った。「むしろ我慢しあい、尊敬しあう関係かしら? 寝室は別だったわ。そして情熱的で痛ましい手紙は天井裏に仕舞われていた。彼らを仲裁するのは困難だわ」
「両親の人生の葛藤を仲裁するなんて、誰にとっても困難なことだと思うな」
「全ての人生はそうなんでしょうね、結局は」とミス・クァイは言い、私を見て微笑んだ。「私はいつも暗い話ばかりしてしまうわ! あなたは私を気が滅入る女だと思ってるに違いないわ」
「僕は君を思慮深い女性だと思う」
彼女は私をじっと見ていた。木々の枝の天蓋からこぼれる陽光が彼女の顔にまだら模様を描いており、それは透明で揺らめくヴェールをまとっているようだった。「そして美しい」と私は付け足した。本当のことだったから。
彼女は赤面し、噴水の方へ振り返った。「こっちへ」彼女は言った。「私のお気に入りの名前を見せてあげる」彼女について噴水を半周すると、彼女はその名前を指差した。デメトリウス・スカイ。ミス・クァイは美しい指を伸ばしてその名前に触れた。流れ落ちる水の膜は指先に割られてきらめいた。
「美しい名前じゃない? ええ、もちろん若くして戦死した男の人の名前はどれも美しく思えるものだけれど。記念碑を見ると、私はいつも立ち止まって名前を読むの。全ての名前を。静かに、声に出して。フランスでは何処にでも、どの街にもあるのよ」彼女は台座から指を離し、水滴を振り払って小さな庭園を見渡した。「ここにはよく来ていたの。でも止めた…」
「どうして?」
「ここに弟がいるような気がして。彼も若くして死んだから」
「弟がいたとは知らなかった」と私は言って彼女を見たが、彼女は天使が抱えた決して空にならない壺から流れ落ちる水を見つめていた。
「いたのよ」彼女は言った。「彼の名前はオーガスト・エドワード。でも私たちは”ガス”と呼んでいたわ」
「いつ亡くなったの?」
しばらく彼女は無言でいて、池に流れ落ちる水の音だけが響いていた。
「10年くらい前」彼女は振り向いて私を見た。「自殺したの。もちろん私たちは誰かにその話をしたりしないし、わざわざ触れたりしない。多分そのせいで、私は彼のことを忘れられないのだと思う。時々、彼の部屋に行って座ることがあるの。全部そのままにしてあるのよ。クローゼットの彼の服は今でも彼の匂いがするの、微かに、でも本当に。ナイトテーブルには読みかけの本が置いたままになっている、”ベラミ”よ。栞も挟まれてるの! 彼は読み終える前に死んだんだわ」
彼女は天使の方へ向き直ると池に手を浸して、水で歪んで拡大されたその手を見つめた。私は手を伸ばして彼女の手の近くへ浸した。水は冷たかった。私が少しずつ手を近づけて彼女の手に触れると、彼女は急いで手を引き抜き、飛び散った水滴が彼女のドレスに染みをつくった。彼女はしばらく立ちすくんで自分自身を落ち着かせようとして、そして言った。「ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだい?」
彼女は何を言うべきか迷っているようだった。彼女は濡れた手をもう一方の手で覆った…まるで怪我をしたかのように。「分からない」彼女は言った。「混乱しているの」
「何に混乱しているの?」
「あなたに、だと思う。あなたのことを理解出来ないのよ…そしてそれが…私を混乱させるの」
「僕の何が理解出来ない?」私は尋ねた。
彼女は彼女の手を見つめた。「ナンシーがあなたが女の人と一緒に居るのを何度も見た、と言ったわ。大きな犬を連れた、オーストラリア人の女の人」
「デント夫人だ。僕の友達だよ」
「友達?」
「そうだ。デント夫人は友達なんだ。クァイサイドに昼食に招いてもらった時に、彼女の話をしたと思うけど。確かに最近、彼女に付き合うことが多い、彼女が落ち込んでいるからだ。彼女のご主人が彼女を残して去ってしまった、だから彼女は悲しんでいて寂しがっているんだ」
「それで彼女を慰めているの?」
「僕は、僕に出来るだけのことをしているんだ」
ミス・クァイは黙り込んだ。ドレスに落ちた水滴は、既に日差しで乾いていた。「私は、あなたがどうやって彼女を慰めているのか知りたい」
「つまり、君は僕が彼女と寝ているかを知りたいと?」
彼女は私を見た。木々の落とす影が顔の上で波打っていたのだが、実際に彼女は小刻みに震えているように見えた。「そうよ。私には関係の無いことだって分かっているけど。ただ、私は……さっき言ったように混乱しているのよ。あなたが私に払う心遣いが、私を混乱させるの。私にはどうすれば良いか分からない。ナンシーは…」
「ナンシーは何と?」
「いいえ、ナンシーが何を言ったかなんてどうでもいいの! ナンシーはいつだって…」
「ナンシーは僕のことを何と言っていたんだ?」
「ナンシーが言うことなんてどうでもいいって言ったでしょ?私はあなたが言ったことを気にするのよ」
「僕が言った何を?」
怒り、あるいは焦燥が彼女の顔に浮かんだ。「ああ、駄目だわ」彼女は言った。「私にはどうすることもできそうにない。私は何もかも間違っている! 私はあなたに答えるように無理強いしていて、あなたには私に言わなきゃならないことなんて何も無いんだわ、何て馬鹿なことをしてしまったんでしょう」
「君はそんなことは全然していないさ」