2011年の生態史-銀河鉄道の夜 | SETAGAYA通信3.0

2011年の生態史-銀河鉄道の夜

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」は有名な作品であり、代表作、そして日本文学史においても代表作です。ぼくは、昔観たアニメーションの影響からか、なにか尋常ならざるものをこの作品から再読する度に感じます。ジョバンニとカムパネルラは、意思疎通をできているようで、どこかにズレがあると感じる。


例えば、ジョバンニは常に「かなしいのだらう」、「さびしいのだらう」と思う。


ところで、マイケル・サンデルが去年・今年と人気を博しました。それは議論をする、ディベートをするというテクニカルな部分( アメリカ的な部分と思われがちですが )が強調されました。


しかしながら、サンデル氏の根底にあるのは、政治哲学者、共同体主義者です。ゆえに議論の根底にあるのは、じつは単純に言って人とつながることにある。その根底にあるのがテーマという共同体をつくることです。


以前、サンデルやロールズが出てくるまで、ひさしく社会学を援用した政治過程論が政治学の中心になりました。それは、理念などを議論するものではなく、非常にテクニカルなものでした。


こういった政治の世界での、人とのつながり、関係性の見直しの潮流もあります。


人は承認と尊敬の中になくては生きていくのは難しいのではないでしょうか。
そういった互酬的関係です。
つまり、こういうことです。承認と尊敬にあるということは、人とつながる。人に頼る。協同する。なるほど、たしかに一人で全部こなせるという人もいるでしょう。一見すると、非常に合理的な考えです。しかしながら、人と協同することは、イコール他人の得意分野を生かして自分の欠点を補うという、最も合理的な側面があるのです。


さてジョバンニとカムパネルラには、なぜか欠落している、その関係性。
村上春樹さんの「1973年のピンボール」には、以下のような記述があります。
主人公「僕」は「三百種類ばかりの実に様々な相槌の打ち方を体得していた」。この世に数多ある小説を分析した大塚英志さんは、物語構造はせいぜい三百くらいのパターンしかないだろうと書いています。だとするならば、三百種類の相槌で、そこそこは人間のコミュニケーションは成立するということになります。


と言っても、人間の生き方はそうそうパターン化できもしないし、互酬がスムーズにいくとも限りません。そのような人間の生き方の不可能にして不可避的な存在論を描いているのが、「銀河鉄道の夜」になります。


不可能だけど、可能かもしれない。その位相に在ることが希望かもしれないし、絶望なのかもしれない。