東日本大震災をきっかけに絆を取り戻した父子がいる。盛岡市のタクシー運転手、多田信行さん(52)。かつては新日鉄釜石ラグビー部の7年連続全国制覇に貢献したラガーマンだった。離婚以来会っていなかった2人の子供と震災後に16年ぶりの再会を果たした。釜石市で被災し、消息がつかめなかった元妻の母を捜しに行ったのがきっかけだった。【安高晋】【石川啄木】津波で2度流された歌碑、3度目の建立目指す 震災時はタクシーの運転席で無事だった。安否が気になる人がいた。16年前に別れた妻の母。釜石で1人暮らしをしていた。 結婚の時は「お母さんのことも守る」と誓ったのに、離婚の報告は電話一本で済ませた。いつか不義理をわびたかった。テレビは釜石の惨状を映し出している。元妻や子供たちは埼玉にいる。「連絡は取れているのだろうか」。知人から聞いていた息子の電話番号に初めてかけてみた。 ◇ 栄光と挫折の半生だった。内陸の宮守村(現遠野市)の貧しい農家に生まれた。高校でラグビーに夢中になり、働きながらプレーを続ける道を選んだ。 鉄鋼不況の後の78年に新日鉄釜石に入社した。東北の高卒選手を鍛え上げ、仕事と両立しながら優勝を重ねるラグビー部は、郷土の誇りだった。5年目からレギュラーになり、ポジションはフォワード。スクラムの最前列を任される。7連覇を達成した85年の決勝戦。劣勢の中、ボールを奪って大きく蹴ったプレーが流れを変えた。試合後、松尾雄治監督から「あれが大きかった」と称賛された。誇らしかった。 転落はあっという間だった。高炉休止が決まった87年に予選敗退。その試合で引退した。製鉄所の大規模な配置転換が始まり、その頃に転職を誘われる。報酬も魅力だった。埼玉に移り住み、東京・新宿のパソコン販売会社に勤めた。 だが思ったようには売れず、再び転職した会社も倒産。借金が膨らみ、離婚を切り出された。小学生の息子と娘は妻が引き取った。 逃げ帰った故郷でも苦しんだ。道路工事、焼き鳥屋、移動販売。どれも続かなかった。 3年前、埼玉の知人から突然連絡が来る。「あんたの息子が今、結婚式をしてるよ」。電話口に呼んでもらった。「お父さん」と呼んでくれた。 長い手紙を書いた。「バカな父だった。今も世間の波にもまれ、はい上がれないでいる」。返信には「ずっと寂しかった」と書かれていた。忘れたことは一日もない。だが時がたっても自分は変わっていない。会う資格はないと思ってきた。 ◇ 震災2日後。電話に出た息子は、義母と連絡が取れないことを明かす。埼玉から現地に行くのは難しい。安心させられるのは自分しかいない。翌日、釜石へ車を飛ばした。 義母は消防の屯所に避難していた。驚いていたが、謝罪には「もういいんじゃない」と表情を和らげた。 5月、義母が元妻宅に一時身を寄せることになった。今なら大切な人に素直に「会いたい」と言えると思った。義母と一緒に深夜バスに乗った。 翌朝、16年ぶりに対面した息子とぎこちなく抱き合った。娘からは頼み事をされた。「近々結婚するの。バージンロードを一緒に歩いてくれない?」 父子のやり取りは今も続く。息子からは「共に頑張ろう」と手書きされた年賀状をもらった。2月の娘の誕生日にはお祝いメールを送った。 釜石で何度か、がれきを取り除くボランティアに参加してきた。自分が輝いていたころの思い出が詰まる、この街の力になりたかった。山積みのがれきが無くなるまで通い続ける覚悟だ。そしていつか、子供たちに見せたい。再興した釜石の姿を。
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